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20 明日になれば

 満月の夜が明けた朝、身支度を終えたリネアが向かったのはノースエンドの街の診療所だった。  突然の強い発情、効かない抑制剤。イアンデに手伝わせてしまった欲望の発散。  もう二度と、こんな失態をおかすわけにはいかない。そう思っていたのに、発情がぶり返しそうな気配を感じてぞっとした。強力な抑制剤を、一刻も早く処方してもらわなければならなかった。  その日の夜、城に帰って来たイアンデをいつものようにエントランスホールで迎えた。おかえりなさいを言う前に、リネアは真っ先に声を上げた。 「イアンデ様。昨夜は大変申し訳ありませんでした」  深々と頭を下げた後、顔を上げた。イアンデは少しだけ驚いたような表情で、リネアを見つめる。 「……もう、体調は大丈夫なのか?」 「はい。診療所で強い抑制剤を処方していただきました。このようなことは、もう二度と起こさないようにします。ご迷惑をおかけして、本当にすみませんでした」  リネアは再び、頭を垂れた。心からの謝罪をまず伝えなければならないと思った。  イアンデは、何も言わなかった。  エントランスホールに、しん、と静寂が落ちる。かすかに、はた、と尻尾が揺れる音だけが聞こえた。  イアンデは表情を変えず、無言で体の向きを変えた。そのままリネアから離れ、スタスタと階段を登って行く。そしてやがて、城の奥へと消えていった。  リネアはイアンデの姿が見えなくなっても、階段の先を見つめていた。  視界の端に、黒い影がゆらりと掠める。上からしゅん、と垂れてきた、自分の耳だった。 (……さすがに、もう、しないよな)  前回このエントランスホールで出迎えた時、イアンデはリネアを抱きしめ、口づけをしてくれた。  けれど今日は、抱きしめるどころか触れることすらなかった。まるで別人になってしまったかのようだった。その距離感にショックを受ける。 (だってもう、そもそも、あんなことする必要ないし)  毎日イアンデと触れ合っていたのは、愛し合う姿をイルヴァ姫に見せるためだった。  イルヴァとの会談は終わった。だからもう、仲の良いふりをする必要は一切ない。 (もしかして、匂いづけや、噛み痕をつけてくれることは、もうない……?)  そう考えたら、リネアは胸がぎゅうっと痛んだ。そうであってほしくない――そんな期待が、心の奥からふつふつと湧き上がる。その気持ちを、どうしても捨てきることができなかった。  けれどそんなリネアの期待を、かき消すかのように。  その翌日も、翌々日も、イアンデはリネアに触れる事はなかった。朝はイアンデを見送るし、帰ってきたら出迎える。夜はイアンデの執務室に仕事の報告に行く。  けれどイアンデからは、リネアの執務室に来ることはなかった。重ねづけをしてくれていた時は、毎日欠かさず来てくれたというのに。  イアンデがひどく、遠くに感じられた。 (愛し合うふりをする前に、戻っちゃったな。仕事の話しかしない、主人と使用人みたいな関係に)  浴びるように与えられていたイアンデの温もりが、跡形もなく消え去った。リネアはなんだか胸の中に、ぽっかり大きな穴が空いたみたいに感じた。  今の状況を冷静に分析して、結論づけるとするなら。  満月の夜、発情している状態ですらイアンデをその気にさせることができなかった自分だ。イアンデは以前、番になってほしいと言って抱きしめてくれたけれど、考えを変えざるを得なかったのかもしれない。このくらいの距離感で、自分と番になろうと。 (……仕方ないのかも。イアンデ様がそうしたいなら、それで)  そう諦めることもできた。ノースエンドに来る前の自分だったら確実にそうしていただろう。  空気を読んで、身のほどをわきまえて。  けれどまだ、リネアは諦めたくなかった。  諦めるのは、イアンデの意思を聞いてからでも遅くないはずだと思った。  話をしなければならなかった。そしてもしもできることなら、ほんの少しでも、たまにはイアンデに触れて欲しかった。ぬくもりが感じられないのが、堪らなく寂しかった。  自分たちはもうすぐ結婚をしなければならない。  式はもう、5日後に迫っていた。 (一応婚約者、だし、きっと、触れて欲しいとお願いするのは、そんなにおかしいことじゃ、ないはず……だし)  駄目なら断るだろうし、イアンデが嫌そうならスパッと身を引こう。とにかく言うだけ言ってみよう、とリネアは心に決めた。  これは自分の、ごくごく個人的な希望だ。勝手なお願いなのはわかっている。  でもこの際、どう思われたっていい。自分から言わなければ、どうせ何も始まらないんだから。  そして夜、リネアは覚悟を決め、イアンデの執務室に乗り込んだ。  いつもの城の仕事の報告を終え「以上です」と締めると、イアンデはいつものように無言で頷いて、たまった書簡に視線を落とした。  リネアはふうと深呼吸をして、一歩だけ前に足を踏み出す。  声が震えてしまわないよう腹にぐっと力を入れ、思い切って声を張り上げた。 「イアンデ様。今、お忙しいですか?」  イアンデが手紙に視線を落としたまま、暗い声色で答える。 「ああ、そうだな。わりと忙しい。手紙がたまっている。今夜中に5通返事を書く。明日は王宮に呼ばれた。日の出前に城を出る」 「……そうですか。それはとても、お忙しいですね……」 「何か用か?」  リネアは自分の耳の先が、しおしおと力なく垂れてくるのを感じた。けれどここで諦めるわけにはいかないと、耳も心もピッと奮い立たせる。 「大した用ではないので、今日でなくてもいいんです。ただ、もうすぐ私たちは、結婚……することですし、その、以前のように……少しでも触れていただけたらなと、お願いをしたかったのですが……」  恥ずかしくてたまらず、イアンデの顔を見ることができなかった。実際口にしてみると、仕事を遮ってまでする話では絶対にない、と改めて思う。  言葉を重ねれば重ねるほどに、どんどん申し訳ない気持ちが募っていく。 「わがまま言って、すみません。ほんの少しだけ、でもいいので…………」  俯いた前髪の隙間から、イアンデをチラリと覗き見る。  こちらを見つめるイアンデの背後で、尻尾がファサリ、と白い弧を描くのが見えた。 「……それくらいなら、別に今でも……」  イアンデが立ち上がろうとガタリと椅子を引いたため、リネアは両手を前に突き出し、慌ててブンブンと振った。 「いえ! お忙しいとのことですし明日も早いですので、優先順位の高い物からどうぞすすめられてください。全然重要なことではないので、本当にいつでも、ご負担のない時、で構いませんので」 「……そうか……では、明日はどうだ?」 「え? あ、はい! 明日ですね! 私は明日、昼にルーンバールから外交官のラウルが会いに来ることになっているだけなので、それ以外なら、いつでも大丈夫です」 「おそらく俺が王宮から帰るのは夜遅い時間だ。それでも構わないか?」 「はい。夜ならば、どんなに遅くても大丈夫です。あの、こんなことを急にお願いして、すみませんでした」  リネアは慌てて頭を下げた。顔を上げたもののイアンデを直視できない。逃げ出すように、急いで執務室をあとにした。  恥ずかしくて、顔から火が出そうだった。  心臓がドクドクと大きく脈打ち過ぎて、今にも喉から飛び出してきそうになる。  無理矢理感は否めない。  でも何にせよ、伝えることができた。約束を取り付けることができた。自分はやり遂げたのだ! (明日になれば、イアンデ様に触れてもらえる。久しぶりに)  ふふっ、と思わず笑みが漏れる。  嬉しくてたまらなかった。廊下で少しだけ、ぴょんとステップを踏んでしまう。体だけでなく、心までふわふわと浮き立ち、空中で躍り出しそうだった。  リネアは初めてだったのだ。  こんなにも明日が来るのが、楽しみだと感じたのは。

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