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26【最終話】狼とうさぎ

   ノースエンドの遥か南、グリムヴォーデンの王宮では、緊急の評議会が開かれていた。  各地から多くの諸侯が参議として召集されたものの、議席には空席が目立っている。  王妃の席もまた空席だった。彼女は自らが起こした事件の(とが)により、もう二度とこの席に戻ることはないのだという。  王妃が世継ぎに推挙していた長子もまた、王位継承権を剥奪されたため、新たな王の後継者を早急に決めなければならなかった。  残る息子は3人。王は宣言した。 「最も優秀な者を、世継ぎに据える」  ひとりの息子がずば抜けた功績をあげていた。優秀な者を後継に据えるならば、世継ぎにはその人物しか有り得なかった。  けれど問題があった。彼は正嫡の息子ではなかったのだ。 「非嫡出子を王に据えるなど、あり得ない」 「王妃の力をここまで削いだのだ。むしろ他家の者の方がよいのでは?」 「軍の指揮をとれるのはこの者だけだ」 「教会にどう説明する? 婚外子の王など例がない」 「あの厄介な領地を問題なく治めているそうだ」 「今回の粛正では内政でも力を示したぞ」  王位継承の正当性があらゆる面から検討され、討論は紛糾した。  そんな中、ある老齢の参議が全く別の切り口から冷静な声を上げた。 「プリンセスイルヴァが、ルーンバールの王太子妃になられるとの報告が昨日ございました。両国の同盟強化のためにも、我が国の王太子妃にも兎獣人を迎えるべきなのでは?」  それを受けて諜報官の長が立ち上がり、最有力の後継候補についての情報を語り始めた。  〈王の忠犬〉とまで呼ばれるほど従順だった彼は、今の妻と結婚するために唯一王命を拒否したこと。そしてその妻は兎獣人であり、妃教育を既におさめている上、ルーンバールの王からの信頼も厚く、さらには賢妻だとノースエンドの領民から慕われているということも。  情報が開示されるたび、否定的な言葉を口にしていた参議たちは、次々に口をつぐんだ。  しんと静まり返った評議会場に、王のよく通る声が響き渡る。  その一言で、王の後継者は全会一致で可決されることとなった。王は参議たちが片膝をつく中、新たな王太子の名を読み上げる。  窓から後光が差し、王の純白の髪を輝かせていた。見下ろす瞳は後継となった息子と同じ、太陽のような金の瞳だった。  ◆  何かふわふわとしたものに頬をくすぐられる感触で、イアンデは目を覚ました。  鼻先で揺れる柔らかな黒毛の耳。腕の中にはすやすやと眠るリネア。無防備な寝顔がたまらなく愛おしくて、起こさないようにそっと頬に唇を寄せた。 「……俺の、番……」  柔らかな肌の感触を唇で堪能しながら、思わずその名を口にする。リネアと想い合い、愛し合っている。その事実に、震えるほどに幸せな感情が押し寄せた。  肩にかかる黒髪を払いのければ、朝の光を浴びた白い裸体が露わになる。  そのむき出しの肌は、重ねづけたイアンデの濃い痕を纏う。初夜から連ねた幾夜もかけて、リネアの体に、そして中に、イアンデは自らの痕をつけ続けた。  イアンデがリネアにつけたのは、匂いだけではない。  白い肌に点々と残る赤い痕。それは目に見える印が欲しいのだと、リネアにつけてとねだられた噛み痕だった。痛くはないのかと心配になりながらも、牙を食い込ませるたびに漏れる気持ちよさそうな声に、欲情が込み上げ止めることができなくなった。  イアンデもまた、自らの体のあちこちにリネアの痕を感じた。首に、頬に、リネアが無意識のうちにつけてくれた可愛らしい痕。犬歯は丸く力も弱い。匂いはどんなに一生懸命につけても僅かに香るだけのものだ。  けれどそのひとつひとつが、イアンデはたまらなく愛おしく思えた。 「……リネアは、本当に、すごいな」  サラサラとした黒髪に指を通していると、伏せられた黒い睫毛がそっと開く。澄んだラベンダー色の瞳が眩しそうに細められると、輝くような笑みが広がった。 「おはようございます、イアンデ様。気分はどうですか?」 「俺の発情はだいぶおさまった。リネアはどうだ?」 「私も、もう落ち着いたようです。胸が少しドキドキしてるくらいで……でもこれは、発情とは関係ない気がします」  リネアのほんのり色付いた頬が、すりすりと胸に擦り付けられる。子犬のようにすんすんと匂いを嗅ぐ姿が大変に愛らしく、思わず見入ってしまう。こっそり嗅いでいるつもりなのだろうが、息遣いでバレバレだ。そんなところも含めて、かわいく思えて仕方がない。  わざと気付かないフリをしながら、力を抜いてリネアが好きにするに身を任せる。敷布をぎゅっと握りしめ、掻き抱きたい衝動を必死に抑えた。  リネアが匂いをつけてくれているのを感じたからだ。  ひとしきり(こす)り付け気がすんだのか、腕の中の動きが、ぴたりと止んだ。新しくリネアがつけてくれた痕を嬉しく思いながら、艶めく黒髪をそっと撫でる。  見上げたリネアの瞳は、イアンデの姿を映すと共に、かすかな不安を宿していた。 「私、今どんなふうですか? イアンデ様の番に、ちゃんと見えますか?」  兎獣人のリネアにはわからないのだ。どれだけ自分が、番に愛された証しを全身にべったりと纏っているのか。  不安げな様子と、見た目とのギャップがあまりに刺激的で、イアンデは思わず頭を抱えたくなった。  リネアには申し訳ないが、この無自覚なところがまた、たまらなく可愛く思えてしまう。 「イアンデ様?」 「ああ。狼獣人なら、誰がどこからどう見ても、はっきりわかるくらいになっている。だから、安心してくれ」 「そうなんですね。よかった……」  リネアが至極嬉しそうに満面の笑みを浮かべ、再び腕の中に潜り込んでくる。素直に甘えてくれることが嬉しくて、密着したリネアの体を愛しさを込めて抱きしめた。 「ここに籠ってから、何日経ちましたかね?」 「何回か夜が明けた気がするが、数え忘れた」 「私もです」  部屋は明るい陽光に満ちていて、朝だということだけはわかる。  けれど寝台に篭ってから迎えた何回目の朝なのかは見当もつかなかった。  気を遣った使用人たちが水や食事を定期的に廊下のワゴンに載せてくれていた。ありがたく思いながら合間に取りに行った記憶は朧げながらあるものの、その回数も曖昧だった。 「……とりあえず、何か飲むか?」 「はい、あ、私、取りに行ってきますね。いつもイアンデ様に、お任せしてばかりで」 「いや、俺が行く」  起き上がりかけたリネアを引き戻し、ごろりと寝かせてぴっちり上掛けをかける。  リネアをまだ自分の寝台から出したくなくて、代わりにイアンデはドアへと向かった。  出入り口を塞ぐように置かれたワゴンのトレイには、いつものように水の入ったデカンタと軽食が載せられている。  けれどその横で、何かがキラリと見慣れぬ光を放った。白く四角い何かが、薄闇の中で存在を主張している。 「……なんだ? これは」  やたら豪華な封筒だった。厚手の羊皮紙の四隅には金の飾り枠の箔が押され、封蝋もまた金色。中央には流麗な書体の自分の名があるのみで、差出人の名は書かれていない。  寝台に戻り水を注いだグラスをリネアに渡した後、イアンデはズシリと重い封筒をまじまじと眺めた。 「イアンデ様、どなたからの手紙ですか? 随分と立派な」 「わからない」 「その刻印……もしかして狼では? 王宮からでしょうか」 「いや、王家の狼とは、形が少し違う気がする」 「でも、狼をモチーフにした紋章は王家しか使えないんですよね? なんだかやたら凝っているし、金色だし……あっ! そういえばそれ、もしかして玉璽(ぎょくじ)では?」 「玉璽(ぎょくじ)?」  王の勅書(ちょくしょ)にしか使われないという、特別な意匠の狼の紋章。  イアンデは息を呑んだ。王からは今まで略式の書簡しか受け取ったことがなく、正式な勅書を見るのは初めてだったからだ。 (王……父上から……?)  リネアとの結婚のため、自分は数日前に王命を初めて断った。王が何か小言でも言いによこしたのだろうか? だがそんなことのために、こんな仰々しい書簡をわざわざ送るか疑問だった。小言くらいならまだしも、面倒な仕事を押し付けられては厄介だ。長期間ノースエンド城をあけることになったら、リネアとしばらく会えなくなってしまう。 「……まずいな」  イアンデは急いで封蝋を割り、中の羊皮紙を確認する。  その手紙はやはり、グリムヴォーデンの最高権力者――イアンデの父である国王からの勅書だった。  読み始めた途端、イアンデは頭にガンと痛撃を食らったような思いがした。 「イアンデ様、どうしました? 何か良くないことでも?」  思っても見なかった内容にイアンデは言葉を失う。  途方に暮れながら、手紙を、す、とリネアに手渡した。不安げな顔で受け取ったリネアが、書かれた文字に視線を落とす。  ラベンダー色の瞳が、大きく見開かれた。 「イアンデ様が王太子……? どういうことです?」 「全く、意味がわからない……」  リネアは目を皿のようにして、再び最初から手紙を読みはじめた。光に透かして見たり、封筒の中を覗き込んだりして、手紙に怪しい点がないかを探る。 「この手紙は、偽物という可能性はないか? 誰かが騙そうとしているとか」 「玉璽(ぎょくじ)の偽造は、大罪ですので……」 「では……」 「本物?」と同時に声を上げ、二人で顔を見合わせる。 「ど、どうしましょう! しかもこれ、必ず私が王太子妃になるようにと、わざわざ条件がつけられています。一体グリムヴォーデンは何を考えているんですか? 私は兎獣人なんですよ? 狼獣人の国の、王太子妃だなんて」 「リネアはまだいいだろう? もともとルーンバールの王妃になる予定だったんだから。俺なんて、王だぞ? これまで戦いしかしてきていないのに」 「イアンデ様は、国王陛下のご子息でしょう? 実力も兼ね備えておいでですし、大変お似合いではないですか! 後継になられるなんて素晴らしいことです。ですが……」  手紙を前に、二人して途方に暮れる。リネアはぽつりと呟いた。 「……と、とにかく話を聞かなければ。一体どういう状況なのか、探りを入れないと……」  何気なく紙面の端に視線を落としたリネアの顔から、みるみる血の気が引いていく。そして全身がプルプルと可哀想なほどに震え出した。 「イアンデ様見てください! ここ、すぐに王宮に来いと書いてあります。しかもこれ、日付、今日です!」 「え?」  顔をくっつけて手紙を覗き込むと、二人して、さあ、と顔を青ざめさせた。  王命は絶対だ。断ることはできない。新婚ほやほやだろうとなんだろうと関係ない。急いで王宮に向かわなければならなかった。  そうなってようやく、イアンデとリネアは5日に及んだ新婚の床を慌てて抜け出したのだった。  のどかな朝のノースエンド城に、狼獣人と兎獣人の番のにぎやかな声が響き渡る。  イアンデもリネアも全く想像していなかったのだ。自分たちの結婚が、まさかこんな事態を招くことになろうとは。  王宮への出発の準備を終え、イアンデとリネアは足早に廊下を進む。  けれどリネアは城を出る直前、エントランスホールでピタリと足を止めた。 「どうした?」 「私たち、これから、どうなるのでしょう……」  不安げに見上げたリネアを見下ろし、イアンデは一瞬、考える。  長い耳。大きなラベンダー色の瞳。小柄で華奢な体。  誰よりも聡明で。  そして、優しい。兎獣人の妻。  自分とは何もかもが違うこの人を、心から愛するようになった。そしてリネアもまた、自分を深く愛してくれている。  こんな幸せな未来が訪れるなんて、一体誰が想像できたというのだろう?  リネアの言う通り、この先何が起こるのかはわからない。  けれどひとつだけ、確かなことは――。 「わからないが、俺は、リネアがいてくれるならば何だってできる。いてくれるだろう? ずっと傍に」 「……何だってできる?……では、王になることも?」 「それは……王宮で話を聞いてから考えるが……でもまあ、リネアが王妃になってくれるというなら……リネアはすごく、向いていそうだし」  伺うように見つめれば、リネアはどこか眩しいものを見るように目を細めた。そして、ふわりと微笑む。 「私だって、イアンデ様が傍にいてくださるなら、王妃にだってなんだってなりますよ。私はイアンデ様の妻で、番ですからね。この先もずっと、私たちは共に過ごしていくことですし。支え合っていけたらと」  頼もしくも愛らしい妻の言葉に、イアンデも思わず頬がゆるむ。  愛しさが込み上げて、リネアの腰に腕を回して引き寄せた。リネアはされるがままに、イアンデの腕の中にすっぽりとおさまる。  そして自然に、二人の顔が重なった。  深く、優しく、心からの愛を込めて。互いに匂いを付け合いながら。  顔を離すと、イアンデとリネアは、笑みを交わし合った。手を取り合い、扉を開ける。  そして共に、足を踏み出した。  広大な、ノースエンド城の外へ。  誰も知らない輝く未来が、二人の前に広がっていた。

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