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番外編1 あふれるほどの愛を (前編)

  「ここは狼の城だ。お前のようなうさぎが、来る場所ではない」  巨大な大狼(ダイアウルフ)の石像から、そんな声が聞こえた気がした。  王宮のエントランスホールにそびえ立つ白い石像。黄金の両眼がギラリと光を放ち、責め立ててくるように感じた。リネアはなんだか悪いことをしているような気分になって、長耳をぴっと強張らせる。 (私は命じられてここに来たんです。おそらくは……貴方の王が、そう望んだから。きっと、そのはず、なんです。だから、許して、欲しいです)  そう祈るように心の中で呟いて、巨大な大狼の前を通り過ぎた。  こんな声が聞こえた気がしてしまうのは――きっと今、少し不安になりすぎているせいだろう。 (まさか私が、狼獣人の国の王太子妃に、と言われるなんて)  貴族社会で何よりも重要なのは立派な家名。そして、有力な貴族の後ろ盾だ。それはこの世に生まれ落ちた瞬間に与えられるものであって、後天的に会得するのは難しい。  王の息子であるイアンデが、後継となるのは素晴らしいことだと思う。けれど、自分がこの狼の国で王太子妃になるには、何もかもが足りない気がした。祖国のルーンバールでは王太子妃になり得る名家の出身ではあったとはいえ、それがこの異種族の国で通用するとは思えなかった。  しかも自分は異種族の男。果たして貴族たちの支持を得られるのだろうか?  今この城にいる兎獣人は、自分だけ。  王宮の広い廊下を歩くリネアの周りには、色違いの尻尾がふわふわと揺れている。黒に鳶色(とびいろ)、こげ茶や薄茶色。そして先頭にはためく青いマントからは、近衛騎士団長の灰色の尻尾がチラチラとのぞいていた。  そしてリネアのすぐ隣には、イアンデの真っ白な尻尾があった。あっちに振れ、こっちに振れ。そのたびフサフサの毛先が、さらり、さらり、とリネアの手を撫でた。まるでリネアがちゃんとついてきているのかを、さりげなく確認するみたいに。  イアンデはリネアの不安を見透かすように、腕を曲げて隙間を作った。リネアはすかさず手を滑り込ませ、抱きつくように腕を絡ませる。触れ慣れた体温を感じて、ほっと息を吐いた。  イアンデが歩きながら、優しい笑みを向けてくれる。純白の長い睫毛の下、瞳の中で金の光が弾けた。嬉しそうに自分を見つめる眼差しに、リネアはたまらず赤面してしまう。  イアンデは人目を惹く容貌をしているが、どこか冷たい印象があった。なのに想いを通じ合わせてからは、これまでになかった甘さが加わり、その魅力は増すばかりだ。  ドキドキと高鳴る胸を押さえ、愛する人に目を奪われる。するとイアンデは、兎獣人のリネアにしか聞こえないほどの小声で囁いた。 「まずは話を聞こう。そして可能なら、この王命は、断ろうと思う」  意外な言葉に、リネアは思わず目を見開いた。 「え……断ってしまうのですか?」 「ああ」  未来の王妃となることは、確かにかなり荷が重い。イアンデもまた、なんの準備もないまま突然王の後継となることを不安に思っているのだろうか? 「でも……」  リネアはずっと、責任を感じていた。  自分と結婚するために、イアンデは王族になる道を自ら絶った。血の繋がった家族を得るせっかくの機会を失ってしまったのだ。  血の繋がりがあるという理由だけで、家族になる必要はもちろんない。人によっては、ならない方がいい場合もあるだろう。  けれどイアンデは、きっとリネアがいなければ今頃王族になっていたはず。リネアの心には、その罪悪感が重くのしかかり続けていた。 「お世継ぎに任命されるなど、素晴らしいことではないですか?」  王にはイアンデの他にも息子がいる。そんな正嫡の息子たちを差し置いてイアンデは選ばれたのだ。それはきっと、これまでの努力が認められたからに違いない。イアンデはこの国の誰よりも多くの戦争で勝利し、命懸けで国を守ってきたのだから。 「名誉なことではある。だが……こればかりは、どうしても譲れない」 「何か、大きな理由が……?」  リネアはごくりと息を呑み、イアンデの次の言葉を待つ。  イアンデは決まり悪そうに視線を逸らした。そして、はた、と一度、尻尾を跳ねさせる。 「だって後継などになったら、やらなければならないことが山ほどある。そうなれば、リネアと過ごす時間が、少なくなってしまう」 「え?」  意外な言葉に、リネアは目を見開く。 「そんな、理由なんですか……?」 「だって、重要なことだろう? せっかくリネアと結婚できたのに……今日だって本当は、こんな所に来たくなかった」  イアンデは口を尖らせ、どこかバツが悪そうに眉をひそめた。耳をしゅんと下げたその姿に、リネアはふと、はしゃぎすぎておもちゃを取り上げられた子犬が、しょんぼりしている姿を思い浮かべる。  リネアの胸が、きゅんと音をたてた。イアンデへの愛しさが、体の奥からあふれ出す。 (かわいい…………)  こんなふうに言うなんてずるい。  本当はリネアだって同じ気持ちだった。お役目のためと必死に、イアンデへの気持ちを隠していたのに。こんな不意打ちみたいに、心を打ち抜くような真似をするなんて。  顔がみるみる火照(ほて)り、体が熱に包まれていく。  けれど。  ふと冷静さを取り戻した頭の中に、ある事実が思い浮かぶ。 (でもそれって、やっぱり私のせいなんじゃないの?)  一度ならず二度までも、自分が原因でイアンデが王族になる機会を失うのはまずい。これ以上、イアンデの足を引っ張るわけにはいかない。  イアンデの尻尾はもう揺れることなく、リネアの腰のくびれに沿ってぴたりと寄り添っている。  まるで大切なものを守るように触れてくれるのがたまらなく嬉しくて、イアンデの腕をぎゅっと抱きしめた。  イアンデのことが大好きだ。  この人の望むことは、なんだってしてあげたくなってしまう。どんな小さな希望も、ひとつ残らず叶えてあげたい。  けれど、これは堕落なのだろうか? だとしたら、自分はとんだ悪妻だ。初めて知った愛に浮かれて、二人してこのまま転がり落ちていくのはまずい。  何かいい方法はないのだろうか? すべてが上手くいく、解決策は? (まずは話を聞いて、お互いの主張を擦り合わせて、落とし所を見つけて……)  リネアは心を落ち着けるため、頭の中で呪文のようにやるべきことを唱えた。冷静な思考を保たなければ、まともに交渉には臨めない。  ドキドキと高鳴る鼓動を胸に、足早に廊下を歩く。  一同は、ピタリと立ち止まった。  近衛騎士団長が派手な音をたてて、両開きの扉を開く。すると隙間から、まばゆい光が差した。  イアンデとリネアは、光溢れる広間に足を踏み入れる。  リネアは、その先に誰もいないと思っていた。自分の敏感な耳を持ってしても、中から何の音も聞こえてこなかったからだ。  目の前に広がる信じられない光景に、思わず目を見開く。  100人はいようかという狼獣人の貴族たちが、一斉にこちらに目を向けた。  貴族たちが居並ぶ中央には、一本の道がまっすぐに伸びる。その先の玉座の周りには、ひと際きらびやかな貴族たちが並び立っていた。 (なに……? これ……?)  バタンと音をたて、後ろの扉が閉まる。  次の瞬間、大臣のよく通る声が、高らかに大広間に響き渡った。 「狼の王。グリムヴォーデンの守護者の息子にして、戦の英雄、イアンデ・ガーディエはこの度、ノルヴァルグ家当主の後継として、家名を改め……」  長い口上を聞きながら、リネアは唖然として、イアンデを見上げる。 「イアンデ様……これは……?」  イアンデが眉間に深い皺を寄せ、玉座の前の人物を憎々しげに睨みつけた。 「くそ……っ、やられた……」  王冠を戴いたイアンデによく似た人物は、グリムヴォーデンの国王に違いない。その隣にいる濃紺のローブを纏った人物は、おそらく大司教だろう。その手が捧げ持つ台座の上には、大小二つの王冠が輝く。 (これ、立冠の儀だ……)  正式な世継ぎとして、王位継承権を賜る儀式。  イアンデとリネアは呆気にとられ、入り口で立ち尽くした。  大臣に名を呼ばれる。どうやらあの壇上に、二人で行かなければならないらしい。  大広間に響くのは、イアンデとリネアの靴が石の床を叩く音だけだった。自分の意思とは関係なく、足だけが勝手に動く。まるで現実味を感じられず、イアンデと組んだ腕にぎゅっと力をこめた。 (嘘、でしょう……?)  もうとっくに「話を聞く」なんて段階ではなかったわけだ。それはすでに、決定事項だった。交渉する余地など、初めからなかったのだ。  大勢の貴族たちが見守る中、王は後継の証である金冠を、イアンデの頭に載せるだろう。そしてその隣の華奢な小冠を、自分の長耳の生えた頭に。  今日、この日をもって。  イアンデはグリムヴォーデン王の後継――王太子になる。そしてイアンデの妻であるリネアは、王太子妃に。  たとえイアンデとリネアが望んでいなくても。  グリムヴォーデンの王が――そして貴族たちが、そう望んだからだ。

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