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第24話 暖簾の紅 其の三
青年が紫雨に縋りつき、耳元で何事かを囁く。
それは療の聴力を持ってしても届かない、親密な声だった。
紫雨は静かに頷き、低く穏やかな声で応じる。
「……そうか。それは怖い思いをしたな。許せ」
「いえ、私が待ち合わせに人の多いところは止めてほしいと言ったのですから。ご迷惑をお掛けして申し訳ございません、紫雨様」
「いや……謝らなくていい。怪我がなくて何よりだ。それでは行こうか」
「……はい」
紫雨は青年を庇うように腰を抱き寄せて歩き出した。
あまりにも親密な様子に、これ以上見てはいけないと療の心のどこかが療自身に訴える。
だが療の身体は見事に自身の気配を消したまま、彼らの後を追い掛けた。
やがて二人が着いたのは小通りの少し奥まったところにある、有名な茶屋だった。
「ここだ。奥で休もう。……部屋は取ってある」
「……はい」
どこか柔らかくも色を乗せた紫雨の低い声に、青年は小さく息を吐いてこくりと頷く。
茶屋の入口に掛かる紅色の暖簾を手で押し広げ、紫雨と青年が見つめ合いながら中へと入っていった。暖簾が落ちる刹那、療は見てしまった。紫雨の口元に浮かぶ、優しげな笑みを。
この茶屋の奥に何があるのか、療は知っている。
人目を避けた小座敷、そして密やかな逢瀬を交わすための閨だ。この茶屋ではないが、療もまたいつもの遊楼の離れが空いていない時は、この手合いの茶屋で彼に抱かれたことがある。
そんな茶屋の奥へ紫雨は躊躇うことなく、青年を導いていったのだ。
(やっぱり……本当だったんだ)
城で聞いた司官達の下世話な噂は。
「はは……」
療は苦く笑った。
ほんの少し前の自分ならば、華も買わない御仁に久方振りの春が来たと、紫雨を知る者達と共に酒の肴にでも出来た。だが今の自分には、どうしても笑うことが出来ないのだ。
療は物陰に身を潜めたまま、揺れる紅の暖簾を見つめ続けた。もしかしたらいまこの時に、二人はすぐに店から出て来るのではないかと、僅かに期待していたのかもしれない。
胸を掻き毟るような痛みが広がり、喉の奥まで込み上げてくる。
それに真竜は雌雄の区別はあるが、どちらとも子を産める種だ。半竜であってもそれは変わらない。
(……紫雨の将来を思えば、これでいいに決まってる)
紫雨の幸せを願う気持ちと、抉られる痛みがせめぎ合い、体は震え、足は竦むばかりだった。
紅の暖簾がゆっくりと揺れ、二人の影が帳の奥へ消えていく。
その瞬間、療の胸の奥で何かが崩れ落ちる音がした。
けれど涙は零れない。
自分には泣く資格すら持っていないのだ。
幻影でもいいと願い続け、偽り続けてきた自分には。
ただ世界から色が失われ、暖簾の紅だけが焼け付くように視界に残っていた。
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