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第5話

「梁兄、あれは魔物ですか!?」  温修明の悲鳴のような声に、俺は素早く振り向いた。鬼谷の森の薄暗い木々の間から、緑色の肌をした小さな生き物が数匹こちらに向かって走ってきていた。 「落ち着け、修明! あれは森鬼(しんき)だ!」  記憶を総動員して、ゲーム内の敵キャラの情報を思い出す。森鬼は鬼谷の森に生息する最弱クラスの魔物で、レベル5くらいあれば楽勝で倒せるはずだ。俺のレベルは15だから、問題ないはず。 「こうやって対処するんだ、見ていろ!」  俺は持っていた木の棒を構えて迎え撃つ。正直、現実で戦闘なんて経験したことないけど、とりあえずゲームキャラの攻撃モーションを思い出しながら棒を振りかぶってみる。 「えいっ!」  棒を振り下ろすと、森鬼は簡単に吹き飛ばされた。ステータスウィンドウによれば俺の戦闘力は25/100と低いはずだが、これくらいの魔物を倒すぐらいなら余裕らしい。 「すごい、梁兄!」  温修明は目を輝かせて俺を見ていた。彼の純粋な称賛に、なんだか照れくさい気持ちになる。 「いやいや、こんなのたいしたことないって。商人なら最低限の自衛くらいできないとな」  森鬼をあと2体倒して、なんとか撃退に成功。温修明は俺の腕を握って興奮していた。 「梁兄はすごいです! 僕なんか怖くて動けなかったのに……」 「まあまあ」  俺は照れ隠しに辺りを見回した。鬼谷の森を抜けるのにあと一日くらいかかりそうだ。昨日から二日目の旅になるが、ここまでは予想通りの展開で安心している。  つい先ほど、白蓮谷の方角が白い霧に包まれているのを確認した。戦いが始まったのだろう。ルートを変えずに白蓮谷を通るルートで西崑国に向かっていたら、今ごろあの霧の妖術に巻き込まれていたことだろう。 (よし、ここまでは記憶通りだ。黒炎軍は白蓮谷で南辰国軍を破った後、楽安街を占拠することになる。このまま予定通り白蓮谷を避け、この森を通って西崑国に向かえば黒炎軍に接触することはない。つまり、外伝ルートに入ることなく平和に生きていける……!) 「修明、今日も無事に野営できそうだな」 「はい! 梁兄のおかげで安全に進めています」  俺たちはなるべく目立たない場所を選んで野営の準備をした。夜の森は想像以上に暗く、不気味だったが、小さな篝火を囲んで互いの体温を感じながら過ごせば、それほど怖くもない。  あと一日でこの森を抜けられるはずだ。そして西崑国へ。商人キャラにとって一番有利な国へ行って、そこで静かに暮らす。黒炎軍とは関わらない。  俺は温修明に笑いかけた。 「明日も頑張ろう。もうすぐこの森を抜けられるからな」 「はい!」  温修明は笑顔で頷いた。彼の笑顔を見ていると、こんな状況でも不思議と心が落ち着く。異世界転生してきなり命の危険に晒されてパニックになってもおかしくないのに、この子がいるおかげで冷静でいられるんだよなと改めて思った。  そして、翌日。  森の中を進んでいると、遠くに人の声が聞こえてきた。  俺は咄嗟に温修明の腕を掴んで身を隠す。 「梁兄?」 「しーっ」  俺は口に指を当てて静かにするよう促した。声の方向から、何人かの人影が見えてきた。それは明らかに一般人ではない。鎧や武器を身につけた兵士たちだ。 (やべっ、なんで森の中に兵士が……!?)  俺たちは大きな木の陰に隠れて、その様子を窺った。 「……予定通り、南辰軍が罠にはまれば、この場所から奇襲をかける」 「総大将の命令は絶対だ。失敗は許されんぞ」 「玲蘭様の霧の術があれば、向こうは何も見えない。完璧な作戦だ」  聞き耳を立てていると、彼らの会話から状況が見えてきた。 (黒炎軍の伏兵!? 白蓮谷の戦いの詳細はゲームではそこまで説明されてなかったけど、まさか鬼谷の森にも伏兵を置いてたなんて……)  ゲーム上では、白蓮谷の戦いで黒炎軍は霧の中から奇襲をかけたという説明だけだった。しかし、どうやら伏兵の一部がこの森にも潜んでいたらしい。敵の退路を断つためか、あるいは包囲網の一部なのか……。 (くそ、読みが甘かった……!)  俺はじっと息を殺して様子を見ていた。兵士たちが遠ざかったのを確認して、やっと安堵のため息をついた。 「梁兄、あれは……」 「ああ、おそらく黒炎軍の兵士だ。俺たちはバレないようにここを抜けないと」  俺たちはさらに慎重に歩を進めた。あとどれくらい歩けば森を抜けられるか。地図を確認したいところだったが、ステータスウィンドウを開く余裕もないほど緊張していた。 「あと少しで……」  そう呟いた直後、突然後ろから強い力で服を掴まれた。 「うっ!?」  俺は宙に浮かされるような感覚で持ち上げられ、振り向いた先には―― 「貴様ら、何者だ」  絶句した。  目の前には圧倒的な威圧感を放つ男が立っていた。  漆黒の鎧に身を包み、その顔は彫刻のように整っている。しかしその美しさは恐怖を伴うもので、鋭い眼光は捕らえた獲物を逃さない猛禽のよう。身長は190cmはあるだろうか、俺を軽々と片手で持ち上げる腕力も尋常ではない。 (ヤバい、これは……!)  その男の姿を見た瞬間、ゲームでの記憶が脳裏に蘇った。  長い黒髪が風になびき、翡翠色の瞳が俺を射抜いている。漆黒の鎧は戦場の血と泥にまみれ、腰に下げた長槍は無数の敵を屠ってきた歴戦の武器だ。そして何より、その全身から放たれる殺気──まさに戦神の化身のような存在感。  間違いない。彼は黒炎軍総大将──龍承業(りゅう・しょうぎょう)だ。 「ひっ……!」  温修明が恐怖で震える声が聞こえた。 「我々を監視していたな。南辰国の間者か?」  龍承業の声は低く響き、その一語一語に殺意が滲んでいた。 「ち、違います! 商人です! 我々は商人で……!」  俺は必死に弁明しようとしたが、龍承業は聞く耳を持たないようだった。 「ここで商人が何をしている。白蓮谷の戦いを見に来たのか? それとも我々の動きを探るためか」  彼は俺の首に掴みかかった手に力を込め始めた。 「殺す」  ただそれだけの言葉で、俺は死を覚悟した。 (マジでやばい、これ死ぬ! 修明と一緒に殺されてしまう……!)  極限の恐怖と、温修を巻き込んでしまった罪悪感で頭が真っ白になる中、咄嗟の思いつきで叫んだ。 「ま、待って! 情報……情報が……!」  龍承業の手が止まった。 「何?」 「お、俺は……そう、商人を装った情報屋です! 南辰国の……いや、各国の情報を売って生計を立てています。戦争は情報戦……そうでしょう?」  完全に思いつきの嘘だったが、それでも龍承業の興味を引いたようだった。 「ほう……」  彼はわずかに目を細めた。その表情の変化を見逃さず、俺は続けた。 「南辰国の軍師・温孟離(おん・もうり)の作戦……知りたくありませんか? 俺なら、その情報を提供できます。彼らの補給路や、兵の配置まで……!」  完全に口から出まかせだったが、死ぬよりはマシだという絶望的な思いでとにかく言葉を紡いだ。南辰国の軍師、温孟離の名前はゲーム知識から引っ張り出した。間違ってないことを祈るしかない。 「黒龍将軍、何をしておられるのか」  新たな声が聞こえた。現れたのは、知的な雰囲気を持った30代ぐらいの男性だった。細身な体と服装から、彼が軍人ではなく軍師的なポジションの人間なのは見て明らかだ。 「冥玄(めいげん)か。……いや、森の中に我々を見張るネズミが紛れ込んでいたのでな。捕らえたところだ」  龍承業は男を見て名を呼んだ。そこで俺は気づいた。彼が黒炎軍の参謀・郭冥玄(かく・めいげん)か! ゲームでも登場する重要キャラだ。  ただ、彼はいろいろ複雑なキャラで……と、これは今はいい。とりあえず置いておく。  龍承業は俺を掴み上げたまま、郭冥玄に「こいつは情報屋だと言い張っているが、お前はどう思う」と問いかけた。その口調は冷笑を含んでいるようで、彼は俺の言い分などまるで信じていないようだった。  対する郭冥玄も、龍承業に掴み上げられたままの俺を一瞥してふっと小さく鼻で笑うと、すぐに俺から視線を外して龍承業に向き合った。 「このような小物、いつでも殺せます。まずは話を聞いてみては?」  郭冥玄は冷静な声で提案した。龍承業は一瞬考え、そして俺を地面に投げ捨てた。 「ぐっ…!」 「貴様の言葉が嘘なら、その場で処刑する」  龍承業の冷たい言葉に、俺は震える手で温修明を庇うように抱き寄せた。温修明は俺の袖をぎゅっと握りしめ、恐怖で震えている。この純粋な少年を、こんな恐ろしい状況に巻き込んでしまった。 (俺が判断を誤ったせいで……修明を危険な目に遭わせてしまった) 罪悪感が胸を締め付ける。しかし今は、何としても二人とも生き延びなければ。 「連れていけ」  龍承業の命令で、周囲から現れた兵士たちに囲まれた。兵士たちは全員、黒炎軍の制服を着込み、顔は無表情だ。彼らの目には慈悲も躊躇いもない。命令とあらば、迷わず俺たちを殺すだろう。 「梁兄……」  震える温修の肩を抱き、俺は無理やり笑顔を作った。 「大丈夫、なんとかなるよ」  内心では「完全アウトじゃん! 黒炎軍に捕まっちゃったよ! しかも『情報屋です』なんてトンデモナイ嘘ついちゃったし! どうすんだよこれ!!」と叫びたい気持ちでいっぱいだったが、温修明を安心させるためにも冷静を装った。 (とにかく、生きることが先決だ。それから脱出のチャンスを探そう……)  俺たちは兵士に監視されながら、黒炎軍の陣営へと連れていかれることになった。黒炎軍の将軍である龍承業に捕まってしまうという、最悪の展開に巻き込まれてしまった。 (これって……まさか、黒炎軍ルートに入っちゃったってこと……?)  ゲームでの外伝ルート。激ムズで有名な、低レアキャラにはほぼ攻略不可能と言われた悪役ルート。それに無理やり放り込まれてしまったのだ。

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