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第9話

 夜になって、俺は太守の館へと向かった。  温修明は「一緒に行きます!」と言ってくれたが、危険を考えて一人で行くことにした。あの子を龍承業なんぞの前には絶対に連れていきたくない。  館の入り口には黒炎軍の兵士が立っていた。郭冥玄の名前を出すと、彼らは怪訝な顔をしたが、最終的には通してくれた。 「総大将は最上階だ。だが、気をつけろよ。今日は機嫌が悪いぞ」  兵士の一人が小声で忠告してくれた。その言葉に、さらに不安が募る。 (機嫌が悪いのかよ……最悪のタイミングじゃん……)  重苦しい気持ちを抱えながら、長い廊下を進む。佐倉遼だった頃ならとっくに逃げ出していただろう。でも今は逃げ場がない。  目的の部屋の前に着くと、豪華な扉の前にも兵士が二人立っていた。 「用件は?」 「郭参謀の命により、総大将にお会いしたいのですが」  兵士たちは互いに顔を見合わせた後、一人が扉をノックした。 「誰だ」  低く響く威圧的な声。間違いなく龍承業だ。 「郭冥参謀から遣わされた者です」 「……入れ」  扉が開き、俺は恐る恐る中に入った。  部屋は予想以上に豪華だった。かつての太守が使っていた執務室を寝室に改装したようで、玉石を散りばめた屏風や象牙の細工が施された豪華な調度品と、竜の彫刻が施された黒檀の机が存在感を放っている。  そして――。 「……!」  部屋の中央、金糸で龍が刺繍された豪華な黒檀の椅子に、龍承業が(もた)れていた。  漆黒の長い髪は夜の帳のように肩から背中へと流れ落ち、緑の瞳は翡翠のように冷たく光っている。酒の香りが漂う中、彼の緋色の長衣は半ば開かれ、胸元には古い戦の傷跡が見えた。  また、彼の隣には、ほとんど裸と言っていい薄い紗の衣装を着た女性が侍らされていた。商売女だろう。彼女は俺を見ると、びっくりしたように体を強張らせた。 「何の用だ」  龍承業の冷たい声が響いた。 「申し訳ありません。郭参謀の命により、今後の資金調達の件でお伺いしました」  龍承業は女性の腰に手を回したまま、俺をじっと見つめた。緊張で全身が固まりそうだったが、俺はなんとか視線を逸らさないようにした。 「商人だったな。名は……」 「梁易安です」 「そうだったな」  彼は女性の肩に触れた。 「下がれ」  女性はすぐに立ち上がり、俺の横を通り過ぎて部屋を出て行った。彼女が去ると、部屋には俺と龍承業だけが残された。 「で、何の用だ」 「はい」  俺は深呼吸した。 「資金調達の方法について、進言があります」  龍承業は黙って頷いた。続けるように促す仕草だ。 「この街の高利貸し・劉金達と交渉してまいりました。彼は黒炎軍に協力する意思を示しています。さらに、他の有力者たちも巻き込めば、安定した資金を確保できるでしょう」  龍承業は興味を示した様子だった。 「ふん、それは良い知らせだな」 「はい、ですが……」 「だが?」  ここからが難しい。しかし、ここで言わなければ全てが水の泡だ。 「有力者たちが協力する条件として、黒炎軍による略奪行為を控えることを求めています」  龍承業の顔色が変わった。その怒りの表情に、俺は思わず一歩後ずさった。 「なに?」  彼の声が低く唸るように響いた。 「我が軍に何をしろと?」 「あ、あの……」  俺は言葉に詰まった。 「長期的に見れば、略奪より安定した収入源を確保する方が……」 「黙れ」  一言で、俺の言葉は途切れた。龍承業は立ち上がり、窓へと歩み寄った。その背中だけで威圧感が伝わってくる。 「略奪は手っ取り早い。資金も物資も、すぐに手に入る」  彼は窓の外を見ながら言った。 「どうして面倒な交渉など必要だ?」 「でも、略奪だけでは長続きしません」  俺は勇気を出して言った。 「街が荒れれば、人々は逃げ出し、市場も機能しなくなります。結果的に、奪うものがなくなってしまいます」 「なら次の街へ行けばいい」 「そうやって転々としていては、いつまでも追われる存在です」  俺は一歩前に出た。 「黒炎軍が真に人の上に立つ存在になるには、単なる略奪者ではなく、統治者にならなければ」  その言葉に、龍承業が振り向いた。彼の目には怒りとともに、わずかな好奇心が見えた気がした。 「ほう……」 「南辰国は『皇道』を掲げ、西崑国は『自由と実力』を、東越国は『知と謀略』を理念としています」  俺は続けた。 「黒炎軍は何を掲げるのですか? 単なる破壊だけですか?」  思いがけず、営業トークのような言葉が出てきた。必死の思いで言葉を紡ぐ。 「黒炎軍には『力』があります。その力で守る領土があれば、人々はあなたを恐れるだけでなく、敬うようになる。そうすれば、略奪よりもずっと多くのものが手に入るはずです」  龍承業はじっと俺を見つめていた。その視線の重さに、足がすくむ思いだった。 「面白いことを言うな」  彼はゆっくりと近づいてきた。 「だが、それは観念論だ。今、我が軍は物資が必要だ」 「だからこそ、有力者たちと協力すべきなのです」  俺は必死で言葉を続けた。 「彼らは資金を持っています。それを活用すれば、戦争の資金も調達できます」  龍承業はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。 「わかった」 「え?」 「略奪を控えるよう命令してやる。だが、条件がある」 「何でしょう?」  尋ねた瞬間、俺の身体は龍承業により強引に引っ張られた。何が起こったのか分からず目を白黒させていると、眼前に龍承業の顔がかなり近くまで迫ってきた。驚いて逃げようとしたが、腰をがっちり固定されてしまい動けない。 「……貴様が来たせいで、先ほどの女を帰してしまった。その埋め合わせをしてもらおうか」  その言葉の意味を考えるよりも先に、俺の唇は龍承業の唇に強引に塞がれてしまった。

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