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第18話
戦いの日が来た。
朝、薄紫色の雲が東越国との国境地帯を覆う中、黒炎軍の宿営地には緊張感が漂っていた。兵士たちは手早く準備を整え、馬や武具を隅々まで点検していく。
俺は温修明と共に、安全な距離から戦場を見守ることになった。高台に設けられた小さな陣営からは、崑山都市と周辺の戦況が一望できる。
「梁兄、いよいよ戦がはじまりますね……」
「まあ、龍承業がいれば大丈夫でしょ。なんとかなるって」
そう言いながらも、俺の心は不安でいっぱいだった。これまで経験したことのない戦場。『覇道演義』をプレイしていた時は、ただの画面の中の出来事だった。キャラが死んでも「ゲームオーバー」になるだけで、自分が死ぬわけではなかった。
だが今は違う。ここは現実だ。敗北すれば死ぬかもしれない。
「龍承業……」
唇から思わずその名が零れた。戦場を見ると、彼の姿は誰よりも目立っている。漆黒の鎧に身を包み、片手で槍を持った姿は、兵士たちの中でひときわ異彩を放っていた。
圧倒的強さを誇る、黒炎軍のリーダー。誰よりも強いステータスを持ちながら、ゲームでは最終的に死ぬことが運命づけられた男。
──考えても仕方がない。今は目の前の戦いに集中すべきだ。
遠くで角笛が鳴り響き、戦闘の開始を告げた。黒炎軍の一部が都市に向かって進軍を始める。東越国軍はそれを待ち構えているようだ。
「作戦が始まった……」
俺は高台から目を凝らして状況を確認した。龍承業の策はこうだ。東越国の罠を見破ったことを悟られないよう、一部の兵力で都市への進攻を装いながら、実際には都市の北側と南側に別働隊を配置する。そして、東越国が仕掛けた水路の堰を先に破壊し、水の流れを彼らの予想とは別の方向に向けてしまうというものだ。
彼の頭脳には驚かされる。『覇道演義』の中でもその戦略眼は評価されていたが、実際に目の当たりにするとその凄さが身に染みる。
「あっ!」
温修明が指差した。
都市の北側で突如として水柱が上がった。堰が破壊され、大量の水が流れ込んでいる。しかし、その水は都市に向かうのではなく、東越国軍が待機している避難地点に向かっていた。
「すごい……本当に龍将軍の言った通りになってる……」
都市に侵攻したふりをしていた黒炎軍は、突如として後退を始めた。そして東越国軍が追撃しようとしたその瞬間、水流が彼らの陣地を襲った。同時に、潜んでいた黒炎軍の別働隊が奇襲をかける。
「梁兄、見てください! 黒炎軍が東越軍を包囲しています!」
混乱する東越国軍に、黒炎軍が火矢を放った。地面に落ちた火矢は、何かに引火したのか瞬く間に炎が広がる。
「あれは……火計?」
どうやら事前に油を撒いておいたらしい。龍承業はここまで計算していたのか。炎に包まれる東越国軍の悲鳴が、かすかに聞こえてくるようだった。
人が焼ける匂いと悲鳴が、離れた自分たちの場所にも如実に伝わってくる。肉が焦げるような匂いと、煙、そして男たちの絶叫。
「うわ……こ、これが戦争か……」
俺の脳裏にはゲーム内の戦闘シーンがよぎった。『覇道演義』のバトルシーンは派手な演出があり、キャラクターが死ぬ時も綺麗な光に包まれて消える。だが目の前の光景はそれとは比較にならないほどリアルで残酷だった。死体が転がり、血が流れ、炎が燃え上がる。ドット絵やCGではなく、実際の人間の命が失われていくのを目の当たりにしている。
「梁兄……大丈夫ですか?」
「ああ……なんとか」
俺は胸が締め付けられるような感覚になっていた。自分の進言が、この戦いの勝敗を分けた。そして、その結果として多くの命が失われたのだ。
「俺の言葉が……人の生き死にを左右したんだ……」
その重さに、俺は言葉を失った。内心では叫んでいた。「ただ生きていくために」と思っていたのに、いつの間にか戦争の一部になっていた。人を殺す側にいる。
そして何より、その戦いの先頭に立つ龍承業の姿に目を奪われる自分がいた。彼は軍の指揮をとりながらも、自ら最前線で敵を薙ぎ倒していく。黒い鎧が血に染まっていく様子が、遠くからでもはっきりと見えた。
彼の周りには誰もいない。兵士たちは彼を頼りながらも、どこか距離を取っているように見える。孤独に戦う彼の姿に、胸がしめつけられる感覚があった。
(なんでだ? 彼はあんなことを俺にしたのに……なぜ俺は彼のことを気にしてるんだ?)
自分の中のこの矛盾した感情に戸惑いを覚えずにはいられなかった。
◆◆◆
勝利の夜。
戦いは黒炎軍の圧倒的勝利で終わった。東越国軍は壊滅的な被害を受け、残りの兵は撤退していった。
夕暮れの空が血のような赤に染まり、やがて青く変わっていく頃、勝利の報せを受けた黒炎軍の陣営は歓喜に沸いていた。兵士たちは酒を飲み、勝利を祝っている。篝火が至る所に灯され、その周りで兵士たちは獲った食料を焼き、歌い、笑っていた。
「梁兄も少し飲みましょうよ」
温修明が酒の入った杯を差し出した。彼の頬は少し紅潮しており、周囲の高揚感に感化されているようだった。
「ありがと、でも今はちょっと……」
戦いの成果を実感する余裕など、俺にはなかった。あの悲惨な光景が脳裏から離れなかったからだ。自分を責める気持ちと、それでも生き延びられたことへの安堵が入り混じる。
それに加えて、頭の片隅で、「龍承業はどこにいるのか」という思いがちらついていた。戦場の最前線で戦っていた彼の姿は、あまりにも圧倒的だった。漆黒の鎧に身を包み、両手に剣を持ち、敵を次々と斬り伏せていく姿は恐ろしくもあり、また美しくさえ思えた。
(何を考えているんだ、俺は……)
そんな自分の思考に戸惑いを覚えながらも、龍承業の姿を遠目に探してしまう。天幕の中に入ったのか、あるいは戦場に残っているのか。
周囲では兵士たちが勝利を祝う声が高らかに響いているが、その将軍の姿が見えない。その不在が妙に気になった。
そんな中、龍承業の部下がやってきた。
「梁易安殿、総大将がお呼びです」
「え? 俺を?」
「はい。今夜、総大将の天幕でお待ちするようにとのことです」
温修明は心配そうな顔をしたが、俺は彼を安心させるように笑顔を作った。
「大丈夫、きっと戦いの報告でしょ。行ってくるよ」
心の中では動揺していた。なぜ龍承業は俺を呼ぶのか。あの時のことを思い出すと、緊張と恐怖、そして名状しがたい期待感のようなものが湧きあがり、胸がざわめいた。そんな感情を抱く自分に、さらに混乱した。
「どうして俺は彼に会いたいと思うんだ?」
夜になり、俺は龍承業の天幕を訪れた。入口には厳重な警備がいたが、俺の名を告げると、すぐに通してくれた。
中に入ると、豪華な調度品が並んでいた。戦場の中にあるとは思えないほど立派な天幕で、中央には大きな机があり、地図や書類が広げられている。枝つき燭台の灯りが部屋を柔らかく照らし、紫檀の香りがかすかに漂っていた。
「来たか」
振り返ると、龍承業がいた。彼は戦場で見た時のような漆黒の鎧ではなく、普段着とおぼしき黒と赤の衣装を着ていた。その威圧感は変わらないが、鎧を脱いだことで僅かに柔らかい印象を受けた。
「戦の助言、悪くなかった」
それだけ告げると、彼は机へと向かい、広げられた地図に目を落とした。褒められたのだろうか? 褒め言葉にしては素っ気ない。でも、龍承業が認めてくれたんだな……と思うと、なぜだか無性に嬉しく感じた。
「ありがとうございます」
龍承業は地図を指さしながら言葉を続けた。
「次の戦略について、お前の意見を聞きたい」
その言葉に、俺は驚いた。なぜ彼が俺のような素人の意見を聞きたがるのか。しかし、その真剣な眼差しを見ていると、純粋に俺の考えを尋ねているようにも感じられた。
(おかしいよな……龍承業が俺なんかに意見を求めるなんて)
だが、彼の目に宿る孤独の色が、どこか俺の心を揺さぶるのも事実だった。
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