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第39話

 玄武城の外れにある小高い丘に、夕暮れがゆっくりと影を落としていた。春の柔らかな風が草を撫で、遠くに見える城の輪郭は徐々に闇に溶け込もうとしている。  俺は、ため息をつきながら月の昇るのを待っていた。満月の夜。『覇道演義』の世界では、重要な決断をする前に訪れる特別な場所。ゲーム内では「決起の丘」と呼ばれるイベントスポットだ。 「……なにやってるんだろうな、俺」  自嘲気味に呟いた。ここに来たのは完全な賭けだった。  俺はゲームの知識から、主人公が最終決戦前に好感度最高のキャラクターとこの場所で語り合うイベントがあることを知っている。でも、この世界の龍承業がゲームのイベント通りに行動してくれるとは限らない。 「そもそも、俺はもう梁易安じゃなくて佐倉遼になっちゃってるし……」  冷静に考えれば、温修明の話を聞いた時点で諦めるべきだった。龍承業はここしばらく誰にも会っていないという。親しい者たちすら近づけず、死を求めるように戦い続けている。そんな彼に会えるわけがない。  けれど、どうしても諦められなかった。蒼空原の戦いが近い今、龍承業に会わなければ、彼は死ぬ。それだけは絶対に避けたかった。  夕焼けの赤が消え、空が深い紺色に染まっていく。月が山の稜線から顔を出し始めた。風が強くなり、俺の髪を乱した。 「来るわけないよな……」  心のどこかでは、自分の思惑通りに物事が運ぶとは思っていなかった。それでも、わずかな望みにすがって、俺は静かにこの場所で月が昇るのを眺めていた。  そんな時である。突然、背後から足音が聞こえた。  心臓が激しく鼓動する。まさか――  振り返ると、月明かりに照らされた漆黒の姿があった。  ──龍承業。  彼は以前よりも痩せ、顔つきが鋭くなっていた。その目は冷たく、全身から殺気が放たれている。腰には常に携えている槍があり、月の光を反射して不気味に輝いていた。  彼は俺を見て、眉をひそめた。明らかに見知らぬ者の存在に警戒している。 「貴様、何者だ」  低く響く声。かつて梁易安だった頃、何度もその声に震え、そして愛されたことを思い出す。 「なぜこの場所にいる。間者か」  俺は喉の奥が締め付けられるような感覚を覚えた。何から話せばいいのか。直接「俺は梁易安です」と言っても、まず信じてもらえないだろう。 「お待ちしていました、龍将軍」  精一杯落ち着いた声で言った。 「お前が誰であるかを聞いている」  彼の手が槍に伸びる。一瞬の間に命を奪われる可能性が高い。俺は深呼吸して、言葉を選んだ。 「俺は……あなたのことを知っています。あなたの過去も、現在も、……そして未来も」  龍承業の表情が一瞬だけ動いた。 「戯言を」 「南辰国で起きた出来事を覚えていますか? あなたが軍人だった頃、家族を殺され、国に裏切られた時のことを」  龍承業の目が鋭くなった。彼は一歩近づき、俺の顔をじっと見つめた。 「貴様……どこでその話を聞いた?」 「貴方から直接聞いたんです」  佐倉は勇気を振り絞って、一歩前に出た。 「信じられないかもしれませんが、俺は梁易安です」  予想通り、龍承業の顔に激しい怒りが浮かんだ。 「愚弄するな! 梁易安は死んだ! この目で確かめた!」  彼の槍が抜かれ、俺の喉元に突きつけられた。冷たい金属が肌に触れ、鋭い痛みを感じる。 「待ってください! 証拠があります!」  佐倉は必死に叫んだ。 「あなたの寝所で、初めて関係を持った夜のこと、覚えていますか? あなたは俺に『俺を裏切らないという証を見せろ』と言いました。それから俺たちは……」  龍承業の目が見開かれた。槍の先に力が入り、俺の喉から血が一筋伝った。 「そんなこと、お前が知るはずがない!」  彼の叫びは明らかに狼狽を含んでいた。俺は龍承業を見据えたまま、言葉を続ける。 「東越山脈の戦いの前、あなたは俺に約束しました。『お前の言葉を信じる』と」  龍承業の手が僅かに震えた。 「そして戦いの後、俺が郭冥玄に攫われた時、あなたは俺を助けに来てくれました。その時、あなたは言いました。『もう二度と、俺の側から離れるな』と」  槍が徐々に下がっていく。龍承業の表情には混乱が浮かんでいた。 「それだけでは……」 「あなたは俺に二つの名前で呼びかけていました。人前では梁易安、二人きりの時は……遼と」  その言葉に、龍承業の手から槍が落ちた。金属が地面に当たる鈍い音が静寂を破る。 「そんなはずがない……お前は、梁易安の顔も体つきも違う」 「ある夜、俺はあなたに全てを打ち明けました。俺が本当は異世界から来た『佐倉遼』という名の男だということを」  佐倉は震える手で、懐から名刺ケースを取り出した。スマホと一緒に、この異世界に持ってきてしまった社畜サラリーマン時代の名残。俺はそこから自分の名前が書かれた名刺を取り出すと、龍承業に差し出した。 「俺の本当の名前は佐倉遼です。梁易安として生きていた時、あなたにそう明かしました」  龍承業は凍りついたように動かない。月光が彼の表情を照らし出す。そこには信じられないという戸惑いと、微かな希望の光が交錯していた。 「南辰国との戦いで俺は死にました。でも、この世界に戻りたいと願ったとき、なぜか元の体に戻っていたんです。それからずっとあなたに会おうと……」  言葉を続けられなくなった。胸が熱くなり、声が詰まる。月の光で龍承業の顔が照らされ、そこには涙が浮かんでいるのが見えた。 「遼……?」  その一言が、二人の間の壁を崩した。俺は頷いた。 「はい、承業様。……俺です、遼です」  龍承業が一歩、また一歩と近づいてきた。彼の手が俺の顔に触れる。その指が頬をなぞり、首筋へと下りていく。 「こんなはずが……」  彼の声は震えていた。 「でも、確かに……お前の瞳は変わらない」  龍承業の手が、恐る恐る俺の頬を撫でる。しばらくそうしていたと思うと、突然彼に強く抱きしめられた。硬い鎧に押しつぶされそうになりながらも、俺は彼の体温を感じた。懐かしく、安心できる感覚だ。 「ごめ、ごめんなさい、すぐに会いに来られなくて……」  気づけば俺も涙が溢れていた。 「お前が死んだ時、俺は……」  龍承業の声が途切れる。彼は俺の顔を両手で包み、まっすぐ見つめた。 「お前がいなくなって、俺は正気を失っていた」 「聞きました。蒼空原に向かうって……」  俺は龍承業の手を取った。 「だから戻ってきたんです。あなたを止めるために」  龍承業の瞳に月光が反射して、異様なほどに美しく輝いた。 「……死地に向かう者を助けに戻ってくるとは、お前は本当に愚かな奴だな」  龍承業は、今まで見たことないような呆れ顔で、俺の頭を優しく撫でた。 「俺は……もう梁易安じゃない。佐倉遼です。それでも……」  龍承業の表情が柔らかくなった。それは梁易安にだけ見せていた、あの優しい顔だった。 「魂が同じならば、お前はお前だ」  その言葉に、佐倉の胸が熱くなった。龍承業の手が彼の首を引き寄せ、唇が重なる。月明かりの下での熱いキスは、かつての日々を思い出させた。   「もう二度と、俺の側から離れるな」  龍承業がキスの間に囁いた。それは以前と同じ言葉だったが、今回は命令ではなく、切実な願いだった。 「絶対に離れません。あなたの未来を、運命を変えるために戻ってきたんですから」  満月が二人を照らす中、佐倉は強く抱きしめ返した。これからの戦いがどうなるか、まだわからない。だが、今はただ、再会の喜びに浸りたかった。

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