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第2話 トラブルDAY(1)
春陽がまだ短大生だった頃。学業やアルバイトの傍ら、地域の福祉団体でメンタルフレンドとして活動していた。
メンタルフレンドとは、不登校や引きこもりの児童と接し、会話や遊びを通じて心を支えるボランティアのことである。
派遣されたのは市内の閑静な住宅街。そして担当を請け負ったのは――当時、不登校児だった中学生・湊だった。
「じゃあ、これからよろしくね。湊くん」
「……よろしくお願いします」
初対面の湊は、今よりもずっと大人しい性格をしていた。けれど話してみれば、控えめながらも素直な少年で、春陽ともすぐに打ち解けることができたように思えた。
その日もリビングで、一緒にボードゲームをしていたのだが、
「学校、あんまり行きたくないんだ。みんなにアルファだってバレてから、なんか嫌になっちゃって」
ふと、聞こえてきた呟き。
春陽は手を止め、相手を急かさないよう視線だけを向けた。湊はしばらく沈黙していたが、やがて少しずつ言葉を紡ぎ出す。
きっかけは、学校で行われたバース性診断だった。
第二次性徴期に診断を受けることが義務づけられているのだが、なんでもおふざけの延長で、診断書が晒されてしまったらしい。
その結果、湊がアルファであると、同級生の間で瞬く間に広まってしまったのだ。
「アルファだからって、いろいろ言われちゃって。アレの形が違うとか……嫌なこと、いろいろ」
「そっか……うん、わかるよ。俺もそうだった」
「え?」
湊が顔を上げてこちらを見る。かたや、春陽は小さく笑った。
「湊くんには特別に教えてあげようかな。――俺ね、オメガなんだ」
正直に打ち明ければ、湊の目が丸くなる。
「オメガ? えっ、本当に?」
「うん。いつの間にか噂になっていて――『やらしいんだ』とか、『フェロモンまき散らしてる』とかって言われちゃってさ。いまいち友達ができなかったんだ」
「……ひどい」
「あはは、ひどいよね? でも、そういう人たちばかりじゃないってことも、湊くんには知ってほしいなって思って。今はちゃんと、俺のことわかってくれる人もいるから」
そう締めくくると、湊が静かにうつむいた。しばらく考え込むようにしていたが、ややあってから口を開く。
「オメガで嫌になったこと、ないの?」
どう返すべきか、春陽は迷った。けれど、すぐに微笑みを浮かべてありのままに答える。
「あるよ。たくさんある」
そこで言葉を区切って、
「でも、『オメガでよかった』って思うこともあるんだ」
「どんなこと?」
興味深そうに問いかけてくる湊に、春陽は気恥ずかしげに笑った。
「うんとね? 俺、子供が好きでさ。それで、自分にも赤ちゃんができるんだ――って思うと、やっぱり嬉しいんだ」
「へぇ……」
「今はまだいないけど。いつか、好きになった人と幸せな家庭を築けたらな、って思ってる。……なんて、ちょっと夢見がちだって笑われちゃうかな」
苦笑まじりに肩をすくめると、湊はぶんぶんと首を横に振った。
「笑わないよ、すごくいいと思う!」
「へへ、ありがと」
「だけど、さ」
湊は照れくさそうに口ごもったのち、
「その、すっかり自分で産む気なんだね?」
と、直球でそんなことを言ってくるものだから、春陽は思わず真っ赤になってしまった。
「あ、あああ~……っ」
「えっ、あ! 言っちゃマズかった!?」
「いや、いいの! れっ、恋愛とか……実は経験なくって。どんな相手がいいとかも、わかんないんだけど――」
春陽は顔を隠すように、手のひらで覆う。それから、おずおずと言葉を続けた。
「でも……パパかママかで言ったら、ママ寄りのパパになりたい……です」
さすがにはっきり言うのは恥ずかしくて、語尾がどんどん小さくなっていく。
春陽はそろりと手を下ろしながら、上目づかいに相手を見つめた。湊は目を細めて笑っている。
「なにそれ、可愛い」
「もうっ、からかわないでよー!」
春陽が言い返すと、湊は笑みを深めた。それは今まで見たことのないような表情で、なんとも晴れやかな笑顔だった。
その後、湊は少しずつ学校へ行くようになる。
あの日の会話が何かをもたらしたのか、彼自身の中で変化があったのは間違いなかった。
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