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第2話 トラブルDAY(2)
◇
「パパ、おきてーっ!」
ぺたぺたという足音とともに、軽やかな声が響く。次いで、どすんっと布団の上に何かが乗っかってきた。
「ぐえっ」
「あさ!」
重い瞼を開ければ、優が顔を覗き込んでいる。
春陽は欠伸を噛みしめながら、手探りで目覚まし時計を探した。
「ん~……いま、何時……」
「めざまし、とめといたよ!」
「うわああああーっ!?」
その一言で完全に目が覚めた。
時計を確認すると、いつもより二十分オーバー。慌てて飛び起きて、キッチンへと向かった。
「わーっ、おにぎに!」
……優の機嫌がいいのが、せめてもの救いだ。
作り置きの冷凍おにぎりを解凍しているうちにも、春陽は支度を進める。朝はとにかく時間との勝負だ。
「優っ、おトイレ大丈夫!?」
「だいじょーぶっ」
「よし、じゃあ出発だよー!」
アパートの玄関を出ると、チャイルドシート付きの自転車へと跨る。心地よく晴れた空の下、幼稚園までの道を急いだ。
後部座席からは、優の歌い声が元気よく聞こえてくる。彼が好きなアニメの主題歌だ。
「パパも『にゃんにゃんマン』のおうた、うたって?」
「はいはーい、せーのっ」
……と、忙しなくも、和やかな時間を過ごしていたのだが、
「パパ、おしっこ」
途中の信号待ちで、不安げな声が聞こえた。
「えっ! さっき大丈夫って言わなかった!?」
「もれちゃうよお~っ!」
「わ、わかったわかった! コンビニでおトイレ借りよう、ちょっと我慢して~っ!?」
春陽は自転車を方向転換させると、あたふたとペダルを踏み直す。
急いで近くのコンビニへと入り、事なきを得たのだが、今日も今日とて余裕のない一日の始まりになってしまったのだった。
数時間後。
無事に優を幼稚園へ送り出した春陽は、街中の小さなカフェにいた。大きなガラス窓からは日差しが差し込み、テーブルに置かれた水のグラスがキラキラと揺れている。
「春陽さんって子供がお好きなんですよね? いやー、僕も大好きで! 軽く三人くらいは欲しいなあ、って思ってるんですよ!」
「あははっ、毎日賑やかになりそう! きっと、そのぶん幸せも多いんでしょうね」
新しくマッチングアプリで出会った相手は、気さくで話しやすい雰囲気の男だった。
悪くない。悪くはない……はずだが、どこか心が浮かないのはどうしてだろう。
とにもかくにも、ニコニコと笑顔で対応する。
他愛ない会話をするさなか、ふと相手の視線が窓の外に向いた。
「ええっと。彼は……君の知り合いかな?」
「知り合い?」
春陽もつられて視線を向ける。
通りに面した、ガラス窓越しに立っていたのは――見覚えのある黒髪の青年だった。
(みっ、み、湊くん~っ!?)
店の前を通りかかったところなのか、湊がこちらを真っ直ぐに見つめている。
春陽はバッグを引っ掴んで、慌てて立ち上がった。
「ごめんなさいっ、お代はこれで!」
テーブルに千円札を置き、ぺこりと頭を下げながら、小走りで店を飛び出す。男の「ちょっと!」という声が背中越しに聞こえたが、それどころではなかった。
外に出た瞬間、湊とばっちり目が合ってしまう。
「湊くんっ……どうしてここに!? まさか、また人づてに?」
「違う違うっ、今回のは本当に偶然っ! 家近いし、バイト行く途中だったんだよ!」
「そうなの? びっくりしたよ、まさかこんなところで会うなんて」
言うと、湊はほんの少しだけ目を逸らした。
「こっちのセリフなんだけど」
「え」
「俺じゃなくて、他の男と会ってたみたいだし。連絡先だって、せっかく渡したのに……」
思わずギクリとしてしまった。迷った末に、先延ばししていたのだ。
湊はむくれたような顔つきで、ぷいとそっぽを向く。その態度はまるで、拗ねた子供のようだった。
「ご……ごめん。だけどっ、大人には大人の事情があって」
「事情、って?」
「……俺のこと訊きまわってたなら、わかるでしょ? その、噂とか」
春陽がそう言うと、湊は複雑そうに眉根を寄せた。
「うん、聞いたよ」
「なら……っ」
「でもそれって、子供のためでしょ?」
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