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第5話 傷の記憶と、触れた温もり(2)
「!」
声にならない悲鳴が、湊の喉奥でくすぶる。
目の前の光景が信じられなかった。いや、信じたくなかった。
嫌だ、嫌だ――と脳が拒絶しているのに、目が逸らせない。
「い、いきなり何ですか……っ」
春陽が啓介の胸を押す。唇に手を当てて、困惑している様子だった。
「悪い。なんか、したくなっちまった」
「こっちは真面目に話してるのに……しかもこんな場所で、誰かに見られたら――」
「見られたらなに? 春陽ってそういうの、気にするタイプ?」
「きっ……気にします」
春陽が気恥ずかしそうに、うつむく。
かたや啓介はくつくつと笑い、湊はその下卑た笑みにゾッとしてしまった。
「この前みたいに、流されちゃえばいいじゃん?」
「……あれは、お酒入ってたし」
「酒のせい? ずりい、俺ばっか悪者かよ?」
ふてくされたように言いながらも、啓介の目は笑っていた。
春陽をからかうような視線。まるで狙った獲物をいたぶって、じっくり追い詰めるかのような。
「なあ、春陽。このあとって何か予定ある?」
唐突な言葉が投げかけられる。春陽は目を泳がせた。
「えっ? あ、その」
「俺、また慰めてほしいんだよね。いろいろ溜まってるしさ」
それはもう遠回しでも何でもない。わかりやすく、いやらしい響きだった。
春陽の身体が強張るのが、遠目にも伝わってくる。
「そう言われても……」
言いよどむ春陽だったが、逃げる余地は与えられなかった。
その華奢な身体を抱きしめ、啓介が再び顔を近づけてくる。
「いいだろ? 慰めてくれよ、春陽」
……春陽は何を思ったのだろうか。
ただ、ほんの一瞬だけ悲しそうな顔をして、ぎゅっと目をつぶったのが見えた。
そうして唇が触れ合う――その瞬間。
啓介が横目で、湊の隠れている方を見た。
口元には微かな笑み。勝ち誇るような、あざけるような表情。
――湊がそこにいることをわかっていて、仕掛けてきたのだと察した。
「っ!」
反射的に、湊は踵を返して駆け出す。
もう心がぐしゃぐしゃだった。
目頭が熱い。視界が滲む。
胸が――張り裂けそうなくらいに痛い。
(忘れろ、忘れろっ……知らない、何も見てない!)
心の中で何度も呟きながら、必死になって走る。
どこをどう走って、どう帰ったのかもわからない。気がついたときには家にいて、自室のベッドに潜り込んでいた。
枕に顔を埋めて、湊は必死に嗚咽を堪える。
(次に会ったら、ちゃんと笑顔でハンカチを返そう。何も知らないふりをして……あの人の前でだけは、ちゃんと笑おう……っ)
震える手でハンカチを握りしめながら、そう誓うのだった。
◇
そして現在――湊は啓介と対峙していた。
啓介の隣にいた女が、訝しげに眉をひそめる。
「やだ、なにこの子? 知り合い?」
「ああ、俺の可愛い弟クン♡」
啓介は軽く答えながら財布を取り出し、無造作に女へと放った。
「ほら、お前は土産でも見てな。好きなもん買っていいからよ」
「ええっ? もー、啓介っていつもテキトーだよねえ」
女は機嫌を損ねた様子だったが、しぶしぶ財布を受け取って行ってしまった。
啓介はやれやれといった表情で肩をすくめる。
「今日は出血大サービス。せっかくだし、場所変えて話すとしますか」
などと言いつつ、背を向けた。その背中を追いかけるようにして、湊も無言でついていく。
二人が移動したのは、近場にあった喫煙スペースだった。
子供たちの賑やかな声もどこか遠くに聞こえ、ここだけ世界が切り取られたように思える。
啓介は煙草を取り出すと、ライターで火をつけながら口を開いた。
「まさか、こんなところで会うなんてな。――誰と来たの? 友達? それともカノジョ?」
口元には笑みが浮かんでいるものの、目はまったく笑っていない。
まるでこちらを試すかのような眼差しに、湊は顔を背けたくなってしまう。けれど、あの頃と変わらぬ臆病な子供のままだと思ったら、大きな間違いだ。
「春陽さんと、その息子とだよ」
言うと、啓介はぴくりと反応を見せた。
煙草の先に火を灯していた手が止まり、わずかに目を見開く。
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