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第5話 傷の記憶と、触れた温もり(5)

「えっと、なんのこと?」  取り繕うように返すも、春陽は小さく苦笑を浮かべる。 「あの人も、来てたんだなって」  ――あの人。  名を出さずとも、誰のことかはすぐに分かった。春陽も啓介の姿を目にしていたのだろう。 「ごめんね。嫌な思いしたよね」 「! 俺じゃなくて、春陽さんの方が……っ」  咄嗟に反論しようとして、湊は踏み止まった。  春陽がこちらを制するように、ひどく穏やかな表情を浮かべていたからだ。 「大丈夫。きっと湊くん、俺のために怒ってくれたんでしょ?」 「っ……」 「やっぱり。だってまだ、ちょっと怒った顔してるもん」  言われて、湊は自分の顔が強張っていることに気づいた。  喉の奥がきゅうっと詰まる。内側に押し込めていた感情が、じわじわと溢れてくるようだった。 「……死ぬほど、ムカついた」  ぽつり、と呟く。 「本気でぶん殴りたくて仕方なかった。あのふざけた顔を、一度でいいから殴ってやりたかった」  そう吐露するうちに、また悔しさが蘇ってくる。  春陽は小さく相槌を打ち、乱暴な言葉をただ受け止めてくれていた。 「うん……そっか」 「でも、殴らなかった。春陽さんが悲しむと思ったから……それだけは絶対に嫌だったから」  言うと、春陽はまた小さく「うん」と頷いた。そして、手に被せていたパペットを、そっとこちらの頭の上に乗せてくる。 「……ありがとう。頑張ったね」  パペット越しに頭を撫でられて、湊は目を見開いた。  まるで小さな子供をあやすかのようだった。その手つきはひどく優しく、つい鼻の奥がツンとしてしまう。  そんな湊を前にしながら、春陽は静かに口を開いた。 「そういった気持ちのやり場って、難しいのよくわかるよ。でも、時間も経っているし、いつまでも過去のこと気にしていられないから――もういいんだ」  そう言えるのは、長い時間をかけて折り合いをつけてきたこそに違いない。  淡々とした口調ながらに、春陽の眼差しには強い意志を感じさせた。 「春陽さん……」 「それに一つだけ、あの人に感謝してることがあるんだ」  春陽は二体のパペットを見つめる――親子のような、大小のホワイトタイガー。  それから、心底穏やかに微笑んで言った。 「俺を――優に会わせてくれたこと」 「………………」 「毎日大変だけど……充実していて幸せ。いつだって新しい発見ばっかりで、子供ってすごいんだよ? 俺もたくさん勉強させてもらってるし、元気だってもらってるんだ」  言って、今度はこちらへと視線が向けられる。 「最近は楽しむ余裕が出てきた、っていうのかな。湊くんのおかげで、特にそう思えてる。……だから本当にもう、いいんだ」  湊は、胸がきつく締めつけられるようだった。  もし、自分というアルファがいなかったら。あのとき、兄と向き合っていれば。  あるいはこの二人が出会わずに――目の前にいる大好きな人が、ごくありふれた家庭を築けていたのなら。  そんな〝たられば〟を考えなかったわけではない。心のどこかで考えては、何度も打ち消してきた。  けれど――今、春陽は幸せだと笑ってくれている。湊の存在をも肯定して、すべてを受け入れて。 (ああ、もうどうしようもない)  胸の奥底から熱いものが込み上げ、気づけば身体が動いていた。  何の前触れもなく、湊は春陽のことを抱きしめる。

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