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小ネタ 三角関係未満の彼ら(第5.5話)
土曜日の午後。
春陽はメンタルフレンドとして、その日も湊の家を訪れていた。
「湊。あなた、春陽くんに渡すものがあるんでしょ?」
リビングに上がると、湊の母・明音 が早速そんなことを口にする。
対する湊は、「ちょっと待ってて」と早足で奥に引っ込んだ。すぐに戻って来るなり、こちらへと手を差し出す。
「はいこれ。先週、忘れてったよ」
その手にあったのは、シックなチェック柄のハンカチだった。
「わっ、ありがとう! 無いと思ったら、湊くんの家に置いてきちゃったんだ?」
「ん……ちゃんと渡せてよかった」
湊が目を細めて笑う。なんだか少しぎこちなく見えるのは、気のせいだろうか。
それに、さきほどからずっと目が合わないのだ。
もしかしたら、何かあったのかもしれない。
春陽は気がかりでならなかったが、あえて言及しようとは思わなかった。こういったときは、軽い話題の方がいい。
「あ、そうだ。俺も渡したいものがあって」
言って、持参した紙袋を手に取る。
「じゃーんっ! 今日はマフィン焼いてきたんだ。湊くん、チョコチップ入りのやつが好きって言ってたよね?」
紙袋の中から、包装したマフィンを取り出すと、親子そろって「わあっ」と感嘆の声が上がった。
「美味しそう! よかったねえ、湊」
「う、うんっ。ありがとう、春陽さん」
湊の瞳が、一瞬にしてきらめく。
明音に紅茶を用意してもらったところで、さっそく三人でマフィンをいただくことにした。
「美味しいっ! これすげー美味いよ!」
伏せがちだった視線が、ぱっとこちらに向く。その横で明音もまた頷いた。
「本当。しっとりしていて、優しい甘さがたまらないわあ」
「へへっ、よかった……」
春陽がそう返すうちにも、湊は頬を緩ませて、ぱくりとマフィンを頬張る。
口々に「美味しい」と言って、喜んでもらえたのは勿論のこと――少しでも湊が元気を取り戻してくれたのなら、作った甲斐があったというものだった。
その後。次の予定を確認して、湊の家を後にする。
しばらく歩いたところで、「は~るひっ!」と声をかけられた。
「よっ! 今日も弟クンの相手、ご苦労さん」
相手は啓介だった。
啓介は湊の兄であり、春陽と同い年の大学生だ。実家暮らしをしているのだが、普段は外に出ていることが多く、家の中で会うことはほとんどない。
かと思えば、こんなふうに少し離れたところで、春陽のことを待っていたりもするから不思議だった。
二人は他愛ない会話をしつつ、駅までの道すがらを並んで歩きだす。
「ふうん、今日は優雅にティータイムですか。あーあ……春陽が作ったマフィン、俺も食いたかったなあ」
「あは、すみません。多めに作ってきたんですけど、ついみんなで食べちゃって」
「いや、みんなっつーか、どうせ湊だろ? 生意気なヤツ」
「……育ち盛りですもんね。小っちゃいマフィンじゃ、ちょっと物足りなかったかも?」
そうフォローしながらも、啓介の顔には不機嫌さが滲んでいるような気がした。
お菓子一つで何をそんなに――とも思うけれど、兄弟とはそういうものなのだろうか。
「まあ、たまにはよしとするか。優しいお兄様の恩情、っつーことで」
言いつつ、啓介はおもむろに背後を振り返る。
春陽もつられて視線を向けたが、特に変わった様子は見受けられない。
「さすがに懲りたか……つまんねーの」
「?」
顔を前方に戻すと、啓介が横目で見てきた。いたずらっぽいような、どこか探るような笑みを浮かべている。
「なあ春陽。今度、俺にも何か作ってよ」
軽い口調で発せられたのは、思ってもみない言葉だった。
「あっ、はい。構いませんけど……どういったのが食べたいですか?」
こちらの問いかけに、啓介はポケットに手を突っ込みながら考える。答えはすぐに返ってきた。
「んーそうだなあ、パウンドケーキがいい。あんま甘くなくて、ナッツがごろごろ入ってるヤツ」
……意外と具体的だ。無頓着そうに見えて、だいぶ好みははっきりしているらしい。
春陽は、もちろんだとばかりに頷いた。
「じゃあ、啓介さん用にレシピ探しておきますね」
「……マジ? 本当に、俺のためだけに作ってくれんの?」
歩みを緩めて、啓介が顔を覗き込んでくる。
その目が思いのほか真剣で、春陽は一瞬言葉に詰まった。
「え? ええ、口に合うかはわかりませんが……」
自分で言い出しておいて、どういった反応だろう。
疑問に思っているうちにも、啓介がふっと口元を緩める。
「やりぃ」
それは、これまで見たことのない笑顔だった。
いつもの軽口や挑発めいた空気は影を潜め、年相応の――いや、子供っぽいまでの無邪気さがあった。
まるで、欲しがっていたおもちゃを、やっと親に買ってもらえたかのように――。
「………………」
春陽は胸を切なくしながらも、さり気なく相手と歩調を合わせる。
そうして結局、いつものように流されてしまい、二人の姿はホテルが立ち並ぶ路地へと消えたのだった。
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