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第6話 この熱は君のせい(2)
店内に入った途端、ふわっと漂ってきたパンの匂いに、春陽の腹が小さく鳴った。
そういえば朝は慌ただしくて、牛乳を一杯飲んだきりだった――と、陳列棚の前で足を止める。
(あ、ジャムが安い)
目に飛び込んできたのは、「本日限り・広告の品」と大きく書かれたポップ。
イチゴ、ブルーベリー、マーマレード……と並ぶ瓶の中で、手が伸びたのはアプリコットジャムだった。
もちろん、パンに塗って食べるのもいいのだが、
(久しぶりにお菓子でも作ろうかな?)
気まぐれに、そう思った。
しばらく仕事や育児でいっぱいいっぱいだったけれど、近頃はちょっと余裕が出てきた気がする。これでも、以前は気軽にクッキーやケーキを焼いていたものだ。
思い立った途端、製菓コーナーへと向かう足が自然と動いていた。
薄力粉にグラニュー糖、バニラオイル、シナモンパウダー……目に留まる材料を見ているうちに、頭の中に一つのレシピが浮かび上がる。
――タルトタタン。
湊が中学生の頃、特に喜んで食べてくれた懐かしい味。
あの頃はよく、手作りのお菓子を手土産にしたものだ。湊は決まって、目を輝かせて「美味しい!」と言ってくれて、それが密かな楽しみの一つでもあった。
(懐かしいなあ。今も好きかな?)
ふと、湊のことばかり考えている自分に気づく。
続けざまに脳裏をよぎったのは、先ほどの病院での会話だった。
相性のいいアルファが近くにいると、体質に変化が出ることがある――。
(やっぱり……湊くんもアルファなんだよね)
今の今まで、大して意識してこなかった。
けれど湊は、もう小さな〝男の子〟なんかじゃない。
自分よりもずっと身体が大きくて、たくましくて――ちゃんと、〝男の人〟の顔だってする。
(ああ~っ、また思い出しちゃった)
これでもう何度目だろう。春陽は火照ってしまった頬に手をやる。
湊に抱きしめられたとき、本当はすごく嬉しかった。それが本音だった。
真っ直ぐに想ってくれることが、どうしようもなく胸に沁みて、ますます愛おしさが込み上げてくる。
だけれど――、
(……応えちゃ、いけない)
レジへ向かう途中。買い物かごの重みを感じながら、春陽は内心で言い聞かせた。
いくら相性がいいとはいえ、アルファもオメガも関係ない。
自分には子供がいて、相手は年下で――しかもまだ学生。そもそもの話、〝普通の恋愛〟なんてできるはずがないのだ。
(俺、もしかして思わせぶりな態度とってるのかな。ちゃんと言った方がいいのかな、「他の人に目を向けた方がいいよ」って)
そうして距離を取るのが、大人というものではないか。
容姿にせよ性格にせよ、湊は好かれて当然だと思う。こちらのことなど諦めてしまい、もっと歳が近くて、自由な人の方が――。
「やだな……」
思いがけず、声に出てしまっていた。
自分でも驚いて、パッと口元を手で抑える。幸いにも周囲には聞こえなかったようだ。
(「やだな」ってなに!?)
あまりの矛盾っぷりに、よくわからなくなる。
ただ、想像してみるだけで、胸が締めつけられるのだ。
湊が自分以外の誰かを抱きしめて、その唇で優しくキスをする。そんな光景に、なんだか嫌な感情が沸き立ってしまう。
(……ずるいよね、俺)
応えようともしないくせに、突き放すこともできない。むしろ、傍にいてほしいとさえ願っている。
この感情に名前をつけてしまったら、もう元には戻れない気がして――思考を振り切るよう、春陽は買い物かごの中身をレジに通した。
そこに並ぶのは、林檎、アプリコットジャム、グラニュー糖にシナモンパウダー……。湊の笑顔を思い浮かべながら選んだ、材料の数々。
甘酸っぱくて、少しだけほろ苦い。
――きっと、タルトタタンの味も。今のこの想いも。
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