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第7話 君が追いかけてくれたから(1)
照りつける日差しは容赦なく、歩いているだけでじんわりと汗が滲む。
梅雨明けの空は青く澄んでいて、夏の気配がすぐ傍まで来ていた。
「いってらっしゃい、優。いっぱい遊んでおいで」
春陽は幼稚園の前で手を振り、優のことを見送る。
もう優はぐずることもない。友達の颯太とともに手を振り、園舎の中へ入っていく。
その背中を見届けてから、春陽はようやく人心地ついた。ただし、今日はこのあと特別な予定がある。
向かう先は――湊のアパート。
発情期 以来、顔を合わせるのはこれが初めてだった。
もちろん連絡は取っていたし、ドア越しにやり取りだってした。
けれど、会うとなると話は別だ。実際に顔を合わせることに、どうしようもない緊張感を覚えていた。
こんなことなら、優と一緒がよかったかもしれない。ただ、今回ばかりは事情も事情だし、二人きりで話したかったのだ。
ちょうど大学の講義が遅い時間帯しかないらしく、今日は湊としても都合がいいらしい。逆に言うと、この機会を逃す手はない。
春陽は心の中で言い聞かせながら、アパートの前に立った。
アパートはまだ真新しく、グレーを基調とした清潔感のある建物だ。オートロック式の共同玄関には、カメラ付きのインターホンがついている。
湊の部屋番号を押せば、スピーカー越しに声が返ってきた。
『春陽さん? 今開けるね』
ガチャリと音が鳴り、玄関のロックが外されたようだ。
春陽はドキドキと緊張しつつも、部屋の前まで辿り着く。ピンポーン、とチャイムを押すと、すぐに中から足音が近づいてきた。
「はーい。いらっしゃい、春陽さん」
ドアが開き、微笑みとともに湊が現れる
ラフなカットソーに、涼しげな麻のパンツ。柔らかな黒髪と、いつもどおりの穏やかなタレ目……。
――久しぶりに見る、湊の姿。
なんだか胸がきゅうっと鳴って、春陽はついまじまじと見つめてしまった。
「どうかした?」
「うっ、ううん。なんでもない! 久しぶりだなあって思って……」
「だね、春陽さんも元気そうでよかった。どうぞ、上がって?」
促されるまま、「お邪魔します」と足を踏み入れる。
部屋に入った途端に感じたのは、爽やかな空気。そして、何よりも――、
(わ、湊くんの匂いでいっぱいだ……)
穏やかで、どこか懐かしさを感じさせる匂い。
不意に、どうしようもなく求めてしまった記憶が甦る。発情期 だって終わったというのに、思い出しただけで、身体の芯が熱くなるような気がした。
「冷房つけてるから、寒かったら言って」
「あ、うんっ。大丈夫」
いけない、と無理やり頭を切り替えながら、春陽は視線を巡らせる。
ワンルームのシンプルな部屋。
家具も少なければ、本棚やデスク周りもすっきりとしていて、きちんと整理整頓が行き届いているのがわかる。
「綺麗なお部屋だね」
「まあ、ね。春陽さんが来るって聞いたら、そりゃあ片付けるよ」
湊が軽く笑う。少し照れくさそうな表情に、春陽も同じように笑った。
「いつもは?」
「んー……ノーコメントで」
他愛ないやり取りに、いくらか気持ちがほぐれる。
春陽がクスクスと笑っていると、湊は思い出したようにキッチンへ向かった。
「そうだ。飲み物だすから、春陽さんは座ってて? アイスコーヒーと麦茶だったら、どっちがいい?」
「じゃあ、麦茶で」
「ん、麦茶ね」
湊の言葉を受けて、春陽はおずおずとローテーブルの前に座る。
ほどなくして、コップに注がれた麦茶が運ばれてきた。
「はい、どうぞ」
「ありがと――」
湊が麦茶をテーブルに置いた瞬間、春陽の視線がある一点に吸い寄せられた。
――右手首。
そこには薄っすらと傷跡が残っており、春陽はパッと湊の手を取ってしまっていた。包み込むようにして、じっとその痕を見つめる。
(あ、痕残っちゃってる……!)
ショックだった。何をしたところで仕方ないのに、つい傷跡を確かめるようになぞってしまう。
対して、湊は苦笑を浮かべながら言った。
「大丈夫。これくらい、しばらくしたら消えるって」
「でもっ」
「春陽さんを傷つけるよか、ずーっとマシ。……言っておくけど、この前のことで謝るのは、もうお互いにやめだからね」
「は、はい……」
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