47 / 78

第7話 君が追いかけてくれたから(3)

 春陽の心臓は、もはや破裂寸前だった。 「むっ、麦茶ごちそうさま! 俺、もう行くね!」  ついに限界が来て、春陽は腕を振りほどくなり、勢いよく立ち上がった。 「あ、待っ――」  制止の声も聞かずに、さっと玄関に駆け寄る。スニーカーに足を突っ込むと、慌てて外に飛び出した。 (まずい、まずいっ……顔、見られたっ……!)  アパートの敷地を出て、小走りに街路を駆けていく。その間も、頭の中はパニック状態だった。  どうしたらいいのかわからなくて、必死になって足を動かす。しかし、背後から近づいてくるもう一つの足音があった。 「春陽さんっ!」  いや、まさか。驚いて振り返ると、湊がこちらに向かって全力疾走してくるのが見えた。 「み、湊くん! ――足はやっ!?」  追いかけっこのように、春陽はスピードを上げて逃げまどう。  が、あちらは身体能力の優れたアルファなのに対し、こちらは貧弱なオメガ。あっという間に追いつかれてしまった。 「逃げられるわけないでしょ!」  ぐいっ、と腕を掴まれる。  春陽は息を弾ませながら、声を上げた。 「離してっ!」 「離したら、春陽さん逃げるじゃん」 「そ、それは」  言葉に反して、こちらのことを掴んでくる手は優しい。  きっと振りほどこうと思えば、ついさっきみたいに簡単に振りほどけるはずだ。だけど――、 (嫌だ……)  湊が追いかけてきてくれたことが、嬉しいとさえ感じてしまう。そんなどうしようもない自分に、春陽は戸惑いを隠せなかった。  観念したように顔を上げれば、真剣な眼差しとかち合う。湊はまるで独り言のように、静かに言った。 「前は……追いかけることも叶わなかった。でも、今はもう昔の俺じゃないから」  どこか遠くへ思いを馳せるような声。  胸が高鳴って苦しい。逃げ出したくなるけれど、もう逃げたくない――そのようなことを考えながら、春陽は続く言葉を待った。  ……すると、どういうことだろう。突如として、ふっと視界がぐらついたのだった。 「――……っ」  もう立っていることもできずに、身体の力が抜けてしまう。膝が地面へと落ちて、たまらず湊の胸にもたれかかった。 「春陽さん? ちょっと、大丈夫!?」  湊の声が遠くで聞こえる。  春陽はそれを耳にしながら、ふと思い出した。 (ああ……そういえば、今日の最高気温って)  忘れていたが、今日の最高気温は三十一度。真夏日もいいところだった。  気がつけば、春陽は木陰で涼んでいた。  大きな街路樹の下。人通りが少ない路地に、ひっそりと佇むベンチ。  街路樹にはミスト装置が取り付けられているらしく、霧のような水滴が宙を舞っている。  外はゆだるような暑さだというのに、この空間だけは涼しさが感じられた。 「はい、これ。平気そう?」  湊が目の前にペットボトルを差し出してくる。スポーツドリンクだった。 「ん、ありがとう。お金は……」  手元を探って、はたと気づく。財布やスマートフォンは勿論、バッグごと、湊の部屋に置いてきてしまったということに。 「うわ、ごめん……俺、何も持ってきてない。全部、湊くんの部屋に置きっぱなしだ……」  申し訳なさげに眉尻を下げると、湊はくつくつと笑った。 「ってことは、後で俺の部屋に戻らなきゃだね?」 「うっ」  ぐうの音も出ないとはこのことだった。  逃げ出したツケが、まさかこんなところで回ってくるなんて。そもそもこれでは、どのみち逃げたところで、何の意味も成さないではないか。 「ははっ、これだから春陽さんのこと――」  湊が何か言いかけた。  冗談めかした笑いも急にしぼんでしまい、空気が変わったことが伝わってくる。春陽は湊の変化に気づきながらも、そっと問いかけた。 「なに?」  促されて、湊は一度だけこちらを見た。けれど、すぐに目を伏せてしまう。 「いや……」  それきり、二人して黙ってしまった。それぞれ手持ち無沙汰に、スポーツドリンクを喉に流し込む。  街路樹の葉が揺れる音と、ミストが小さな霧を噴出している音……。  大した人通りもなく、それ以外は何も聞こえない。ただ、鼓動だけが妙に大きく耳に響いていた。  そうして長い沈黙の果てに、湊が静かに言った。 「俺……春陽さんのこと、好きだよ」  一陣の風が吹き、ざああっと木立が音を立てて揺れる。  ふと横を見ると、湊は真っ直ぐに春陽のことを見据えていた。

ともだちにシェアしよう!