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第7話 君が追いかけてくれたから(3)
春陽の心臓は、もはや破裂寸前だった。
「むっ、麦茶ごちそうさま! 俺、もう行くね!」
ついに限界が来て、春陽は腕を振りほどくなり、勢いよく立ち上がった。
「あ、待っ――」
制止の声も聞かずに、さっと玄関に駆け寄る。スニーカーに足を突っ込むと、慌てて外に飛び出した。
(まずい、まずいっ……顔、見られたっ……!)
アパートの敷地を出て、小走りに街路を駆けていく。その間も、頭の中はパニック状態だった。
どうしたらいいのかわからなくて、必死になって足を動かす。しかし、背後から近づいてくるもう一つの足音があった。
「春陽さんっ!」
いや、まさか。驚いて振り返ると、湊がこちらに向かって全力疾走してくるのが見えた。
「み、湊くん! ――足はやっ!?」
追いかけっこのように、春陽はスピードを上げて逃げまどう。
が、あちらは身体能力の優れたアルファなのに対し、こちらは貧弱なオメガ。あっという間に追いつかれてしまった。
「逃げられるわけないでしょ!」
ぐいっ、と腕を掴まれる。
春陽は息を弾ませながら、声を上げた。
「離してっ!」
「離したら、春陽さん逃げるじゃん」
「そ、それは」
言葉に反して、こちらのことを掴んでくる手は優しい。
きっと振りほどこうと思えば、ついさっきみたいに簡単に振りほどけるはずだ。だけど――、
(嫌だ……)
湊が追いかけてきてくれたことが、嬉しいとさえ感じてしまう。そんなどうしようもない自分に、春陽は戸惑いを隠せなかった。
観念したように顔を上げれば、真剣な眼差しとかち合う。湊はまるで独り言のように、静かに言った。
「前は……追いかけることも叶わなかった。でも、今はもう昔の俺じゃないから」
どこか遠くへ思いを馳せるような声。
胸が高鳴って苦しい。逃げ出したくなるけれど、もう逃げたくない――そのようなことを考えながら、春陽は続く言葉を待った。
……すると、どういうことだろう。突如として、ふっと視界がぐらついたのだった。
「――……っ」
もう立っていることもできずに、身体の力が抜けてしまう。膝が地面へと落ちて、たまらず湊の胸にもたれかかった。
「春陽さん? ちょっと、大丈夫!?」
湊の声が遠くで聞こえる。
春陽はそれを耳にしながら、ふと思い出した。
(ああ……そういえば、今日の最高気温って)
忘れていたが、今日の最高気温は三十一度。真夏日もいいところだった。
気がつけば、春陽は木陰で涼んでいた。
大きな街路樹の下。人通りが少ない路地に、ひっそりと佇むベンチ。
街路樹にはミスト装置が取り付けられているらしく、霧のような水滴が宙を舞っている。
外はゆだるような暑さだというのに、この空間だけは涼しさが感じられた。
「はい、これ。平気そう?」
湊が目の前にペットボトルを差し出してくる。スポーツドリンクだった。
「ん、ありがとう。お金は……」
手元を探って、はたと気づく。財布やスマートフォンは勿論、バッグごと、湊の部屋に置いてきてしまったということに。
「うわ、ごめん……俺、何も持ってきてない。全部、湊くんの部屋に置きっぱなしだ……」
申し訳なさげに眉尻を下げると、湊はくつくつと笑った。
「ってことは、後で俺の部屋に戻らなきゃだね?」
「うっ」
ぐうの音も出ないとはこのことだった。
逃げ出したツケが、まさかこんなところで回ってくるなんて。そもそもこれでは、どのみち逃げたところで、何の意味も成さないではないか。
「ははっ、これだから春陽さんのこと――」
湊が何か言いかけた。
冗談めかした笑いも急にしぼんでしまい、空気が変わったことが伝わってくる。春陽は湊の変化に気づきながらも、そっと問いかけた。
「なに?」
促されて、湊は一度だけこちらを見た。けれど、すぐに目を伏せてしまう。
「いや……」
それきり、二人して黙ってしまった。それぞれ手持ち無沙汰に、スポーツドリンクを喉に流し込む。
街路樹の葉が揺れる音と、ミストが小さな霧を噴出している音……。
大した人通りもなく、それ以外は何も聞こえない。ただ、鼓動だけが妙に大きく耳に響いていた。
そうして長い沈黙の果てに、湊が静かに言った。
「俺……春陽さんのこと、好きだよ」
一陣の風が吹き、ざああっと木立が音を立てて揺れる。
ふと横を見ると、湊は真っ直ぐに春陽のことを見据えていた。
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