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第4話 俺からしたくなった、初めてのキス

   翌朝、一ノ瀬は有馬が目を覚ます前に出勤していた。  起きたときには、すでに昼を過ぎていた。昨夜の出来事が、まるで一日中練習していたかのように体を重くさせていた。  ダイニングテーブルの上には、一ノ瀬が用意してくれたパンが置かれていた。その横には、ひらひらと一枚のメモ。  有馬は手に取って読んだ。 「午後に宅配便が届くから、受け取ってね。」  そんなのLINEでよくない?なんでわざわざメモ書くんだよ――  そう思いながら、メモをテーブルに戻し、パンの袋を開けて口に運んだ。もぐもぐと咀嚼しながら、なんとなく胸が詰まる。  夕方、一ノ瀬が帰宅したとき、有馬はテレビの前でPS5に夢中になっていた。  ダイニングの上には、すでに届いた宅配の箱がぽつんと置かれている。一ノ瀬はそれを見て、くすっと笑った。 「おーい、ちょっとこっち来て」  一ノ瀬が呼ぶと、有馬はコントローラーを置いて、しぶしぶ近づいた。  箱の中から一ノ瀬が取り出したのは、年季の入った古いアルバムだった。 「一昨日、実家から送ってもらったんだ。見せてあげようと思ってさ」  そう言ってページをぱらぱらとめくり始め、数枚見たところで、一ノ瀬はアルバムを有馬の方へ押しやった。 「ほら、これ」  有馬は最初、なんとなく眺めていたが――次の瞬間、動きが止まった。  写真の中、4歳にも満たないくらいの小さな子どもが、一ノ瀬の膝にしがみついて、その頬に口をくっつけている。  見覚えのある丸い頭と、てっぺんの髪の渦――まさか、これ、自分……? 「……俺、ほんとにキスしてたのか!?」 「一回だけじゃなかったよ?」  一ノ瀬は当然のように笑った。 「小さい頃のお前、俺にベッタベタだったからね。見るたびに抱きつくし、キスするし、服引っ張るし。あの、パンツ姿で俺の顎にキスしてる写真、まだ見つかんないけど――あれ、マジで傑作」 「う、うそだろ!?そんなの記憶にないし……!」  有馬は慌ててアルバムをめくった。 「誰が子どもの頃にそんな――あ、あった……」  声が小さくなった。  そこには、本当にあったのだ。古びたソファに座る若い一ノ瀬い、その膝の上にパンツ一枚ちんまりと収まる幼い有馬。ふくれた頬のまま、しっかりと一ノ瀬の顎にキスしている。  有馬が急に黙り込んだのを見て、一ノ瀬がにやりと眉を上げた。 「どうした?昔の自分に嫉妬?」 「……自分の過去に嫉妬してどうすんだよ。バカか」  有馬はぼそりと答えながらも、耳の先まで真っ赤に染まっていた。  ページに写る一ノ瀬の顔――まだ少年らしさが残るその表情は、どこか優しげで、整った眉間が今と同じ雰囲気を醸している。  有馬は、過去の自分が羨ましかった。あんなふうに、堂々と一ノ瀬に触れられたことが。  一ノ瀬がふいに身を寄せてきた。有馬の横に手をつき、そっと肩に顎をのせる。 「じゃあ今は?俺にキスしたい?」  電流が走ったように、有馬の体がびくっと震えた。  顔を向けると、一ノ瀬の目が細く笑っていた。その奥には、隠しきれない優しさがにじんでいた。 「……調子に乗るなよ」  耳まで真っ赤にしながら、有馬は精一杯の虚勢を張った。 「ってことは、キスしたいってことだね?」 「違うっつってんだろ!」  有馬はアルバムをバタンと閉じた。 「日本語、わかんないわけ!?」  一ノ瀬はそれ以上近づかず、ふっと笑ってリビングのソファに戻った。  腕をソファの背にもたせて、のんびりと座りながら低い声で言う。 「でもさ、本音言うと……俺、けっこうキスしてほしいんだけど」  有馬が睨み返す。「じゃあ、笑うな」 「笑わない」 「目も閉じるな」 「うん」 「……動くなよ」 「動かないって」  一ノ瀬はじっとダイニングに立ち尽くす有馬を見ていたが、いくら待っても彼は近づいてこない。 ――やっぱ、焦ったかな。  一ノ瀬がそっとアルバムを片づけようとした、そのときだった。  有馬が、一歩、踏み出した。  ゆっくりと一ノ瀬に近づき、膝をソファにぶつけながら前かがみに身を寄せた。  目を大きく見開いたまま、警戒するように一ノ瀬を見つめるその表情は、必死に呼吸を忘れないようにしているようでもあった。 「……ほんとに動くなよ」 「ちょっとでも動いたら、俺の負けでいい」  一ノ瀬の声はかすれていた。  見つめる先の有馬の頬は真っ赤で、耳から目尻まで火照っている。  有馬は唾を飲み込み、まるで犬がそっとエサに近づくみたいに鼻先を一ノ瀬の唇へ寄せた。  空気が熱を帯び、すべての音が遠ざかっていく。  そして――有馬は本当に、キスをした。  それは、そっとふれるだけの、風のように軽いキスだった。少しでも長く触れていれば、何かに呑まれてしまいそうな、そんな一瞬。  一ノ瀬は動かなかった。  喉ぼとけが一度上下した以外は。 「……もう終わり?」  低い声で聞かれ、有馬が慌てて身を引こうとした、その瞬間。  首筋を、ぬくもりのある手が包み込んだ。  一ノ瀬の手が、ゆっくりとその後頭を引き寄せ、額をくっつけて囁いた。 「短すぎ」 「や、約束したじゃん……!」  顔を真っ赤にしたまま、有馬は一ノ瀬の胸に手をついて目を逸らす。 「動いたのは俺じゃない。お前の方から来たんだろ?」 「ば、ばかじゃないの……そんなの……」  有馬の声が途切れ、目がまた一ノ瀬の瞳とぶつかった。  喉の奥で音を飲み込みながら、一ノ瀬はそっと言った。 「もう一回、する?」  有馬はびくっと震えたあと、数秒だけ唇を閉ざし、やがておそるおそる頷いた。  一ノ瀬のシャツのすそを掴みながら、小さく呟く。 「……じゃあ、目、閉じろ」  返事はなくても、一ノ瀬はゆっくりと瞼を閉じた。  そのとき、有馬の息が唇のすぐ近くで揺れていた。  震える吐息が、まるで触れる寸前の誘いのように、唇をくすぐる。 ――このキスは、さっきとは違った。  今度は、探るように、ほんの少し勇気を乗せて。  少年の拙い好奇心と意地っ張りが混ざった唇が、一ノ瀬のそれにふれて――そして、舌が、震えるように、そっと触れた。  一ノ瀬はもう我慢しなかった。  腕を伸ばして有馬の腰を引き寄せ、しっかりと抱き寄せる。  深く、唇を重ね、舌を迎え、指先で震える背中をなぞる。  くぐもった吐息が洩れた。文句なのか、甘えなのか、判別できない声だった。  キスが終わった瞬間、有馬は後悔した。 ――こんなに、何度も、自分から…… しかも、舌まで、絡めた……!  一ノ瀬の膝から降りたとき、頭の中は真っ白だった。  やばい、俺……何してんの……!  一時的な居候のはずだったのに、いつの間にか、自分がこんなに近づいてしまっている――  そう思った瞬間、部屋に逃げ込もうとしたが、その腕を、一ノ瀬が引き留めた。 「……どこ行くの?」  その声には、さっきまでの余裕とは違う、少し荒い呼吸が混じっていた。  有馬は一ノ瀬の胸に顔をうずめながら、心の中で呟いた。 ――あ、終わったかも。  

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