2 / 7

第2話「神の囁き」

〝冬夜〟──というらしい被写体は、無言のまま椅子に座っていた。 脚を組み、顎を引いている。 光の中に沈んだ姿は、まるで彫刻のようだった。 なのに、妙に“生きて”いる。 長い睫毛。血の気のない肌。 見下しても、睨んでもいない。 けれど、目が合った瞬間、呼吸が止まりかけた。 ──見透かされてる。 そんな直感が、皮膚の奥に刺さった。 こんな被写体、初めてだった。 「……じゃあ、始めます」 声をかけると、冬夜がゆっくりとこちらを見た。 その瞬間、空気が変わった。 刺さるような視線に、胸の奥がざわめく。 シャッターを切る。 光を読む。 呼吸と間合いを合わせて、表情の揺らぎを待つ。 ──でも、まだ“そこ”じゃない。 確かに撮っているのに、なぜか“撮らされている”気がした。 主導権が、向こうにある。 もっと近づきたいのに、届かない。 「……すみません、あと10分で撤収の準備を……」 スタッフの声に、意識が戻る。 喉が渇いていた。呼吸が乱れていた。 肩にのしかかる疲労が、現実に引き戻す。 ──くそ。時間切れか。 その時だった。 「撮ったの、見せて」 冬夜がいつの間にか、隣にいた。 驚くほど近くに。 低い声。無感情なのに、拒めない気配だけが濃い。 喋るんだ、と一瞬だけ思って、液晶を差し出す。 画面を覗き込む。 まばたき、ひとつ。 「……たりない」 たった一言で、背筋がぞわりと逆立つ。 「君、もっとやれるよね。やって」 なにを、どこまで、見抜かれているんだろう。 「……すみません、もう時間が……」 スタッフの声が再び響く。 撮影は、もう終わり。 ──けれど。 まだ、寄せられる気がした。 まだ、届いてない気がした。 そう思った瞬間、冬夜が俺の腕を掴んだ。 「じゃあ、君、俺の家に来て。今すぐ」 「は?」 何を言ってるんだ、こいつは。 頭がおかしいのか?──いや。 本気だ、この目は。 「もう一回、撮って。……今度は、最後まで」 細い身体のどこにそんな強引さがあるのか。 拒む間もなく、気づけばタクシーの後部座席に押し込まれていた。 十九歳が、三十間近のカメラマンを拉致。 ……絵面としては逆にしか見えないが、実質、これは誘拐だ。 逃げようと思えば、逃げられた。 電話をすれば、戻れた。 やるべき仕事も、説明も、謝罪も──全部、投げ出した。 なのに、俺はここにいる。 理由は、まだわからない。 車内はずっと静かだった。 冬夜は窓の外を見たまま、ぴくりとも動かない。 俺の横に“座っている”だけなのに、距離の感覚がおかしい。 存在が、強すぎる。 言葉を発さないくせに、気配だけで空気を支配してくる。 なにを考えてる。 なにが目的だ。 本当に“撮る”ためだけに連れてきたのか? 不安と興奮が、喉の奥で交差する。 見たことのない感情が、じわじわと胸を侵食していく。 気づけば、口が勝手に動いていた。 「……YouTube、観た。よかったよ」 言った瞬間、しまった、と思った。 返答は、なかった。 ……と思った瞬間、鋭い視線が横から突き刺さる。 「君、本当にそう思うの?」 マゼンタの瞳が、俺を射抜いた。 無表情のままなのに、なぜか“怒っている”ように感じた。 冷たい。熱い。わからない。 「……編集も、撮り方も、間違ってた。と思う」 息を吐くように、告白のように、言った。 自分の声なのに、どこか他人のようだった。 ──睫毛が、わずかに震えた。 その一瞬だけ、冬夜の表情が変わった。 「俺も。だから、君の目で俺を撮って」 “神様”が、ほんのわずかに、笑った。

ともだちにシェアしよう!