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第3話「深夜の神託」

鍵のかかっていないドアを開けると、部屋の中はほとんど闇だった。 カーテンの隙間から漏れる街灯の光が、ぼんやりとだけ床を照らしている。 足元には何かが散らばっていた。 譜面、ケーブル、エフェクター、空になったペットボトル。 音楽にまつわるものばかり。 生活の匂いはほとんどなかった。 冬夜はすでに奥へ進み、ベッドフレームの上に腰を下ろしている。 「……早く撮って」 淡々と言い放つその声に、俺は眉を寄せた。 「待て。暗すぎる」 ここはスタジオじゃない。 夜中の民家だ。照明はない。 「こんなところで撮れるか。光が全然足りねぇ」 思わず敬語を忘れてしまった。 しかし冬夜は気にした様子もなく、じっと俺を見ていた。 一ミリたりとも動かない。 「スマホのライトでもなんでもあるでしょ。なんとかして」 苛立ちも焦りも感じられない。 ただ確信と要求だけ。 ──くそったれ。 内心で舌を打った。 バッグからスマホを取り出し、画面を見れば充電58%。 「わかった。撮ってやる。お前のスマホも貸せ。光になるものは全部出せ」 冬夜は無言でスマホを差し出した。 ひったくるように受け取り、懐中電灯を起動して、ありったけの光を部屋に配置する。 強い光を天井に反射させ、壁の白さを使って拡散させる。 スマホの明かりは背後の影を消すため、低い位置に置いた。 できる限り工夫した。 最低限の光を確保した。 ──これでダメなら、俺の負けだ。 電池が切れない限り、朝までつき合ってやる。 ISOを最大に上げて、声を荒げる。 「絶対に動くな。呼吸も、瞬きも我慢しろ」 半ばヤケクソだったが、覚悟を決めてレンズを覗いた。 そこにあったのは──あの目だった。 光を反射する、深く鋭い目。 すべてを見透かすような、神様の目。 レンズ越しの冬夜は、まるで彫像のように静止していた。 だが、凍っているわけじゃない。 燃えているのに動かない。 撮るたびに体力を削られるような感覚。 目を逸らせば、何か大切なものを見逃す気がして── 息をすることさえ許されなかった。 シャッターを切る。 光を読む。 ピントを合わせ、呼吸を合わせる。 冬夜は微動だにしない。 ただ俺を見返しているだけ。 ──それでも、瞬きすら──煩わしかった。 カシャッという音だけが、部屋に染み込むように響く。 腕がじわじわ重くなる。 どれだけ撮った? 三十分? 一時間? 一枚撮るごとにスマホ二台の角度を変え、微調整を繰り返す。 机に立てかけ、ポケットティッシュを挟み込んだり。 無意味とも思える作業。 だが、そうしなければ撮れない。 被写体が“人間”であることを考える余裕はなかった。 何枚撮ったか、何分経ったかもわからない。 時計の針も意識の外で、時間感覚なんてとうに失われていた。 ただ──この写真は、世界で俺しか撮れない。 そう、何故だか確信していた。 夜は確実に、朝へと傾き。 いつの間にか、夜が明けていた。 ――― カーテンの隙間から青白い光が差し込み、部屋を浮かび上がらせる。 「……よくやった。えらいぞ」 疲れて座り込む俺に、冬夜は無関心な声を投げた。 「うるせぇ」 気にもせず、冬夜はいつの間にか手に持っていたカメラを押しつけてくる。 「よく撮れてる。現像して、送って。それじゃ、おやすみ」 そう言い残し、ベッドに沈み込んだ冬夜は、ためらいなく目を閉じた。 「……おい」 返事はない。 呼吸だけが、静かに続いている。 まるで電源を落とすように、沈むように眠りについた。 荘厳なくらいに威圧感にみちた目をした人間が、こんなにも静かに眠るのか。 それは無防備で、美しくて、なぜか少し哀しかった。 机からスマホを手に取る。 充電は真っ赤。 その、赤く点滅したバッテリー残量も、一瞬でゼロになる。 壁の時計を見ると、5時45分。 始発がもう動き出していた。 すべてが静まった世界で、電車だけが俺の味方らしい。 俺はカメラを抱え、ため息を一つ落とし、それから静かにその場を離れた。

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