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第4話「運命のレンズ」
「最悪だ……」
帰って、倒れるようにベッドに横たわった。
気づけば、空は赤く染まっていた。
催促のメールに返事を送って、撮影データを添付する。
それでも、俺は椅子から動けなかった。
カメラバッグを床に放り出し、背もたれに体を預ける。
撮った写真には、冬夜が写っていた。
“写すつもりがない”ものまで。しっかり。
深夜の民家。
光源はスマホの灯りと鏡の反射だけ。
光も構図もめちゃくちゃで、技術的には失敗作だ。
だが、その中にあの目があった。
冬夜の、俺だけを見つめる――強烈な視線。
「見ろ」「撮れ」と、あいつは言っていた。
シャッターを押したのは俺。
けれど、あれは“俺の写真”じゃない。
俺の信条はずっと、撮影者は空気であることだった。
写真に自分の色を持ち込まず、被写体の魅力だけを引き出す。
「関係性」は写り込んではいけない――それがプロの仕事だと。
なのに、あの写真には確かに、俺と冬夜の“関係”が写り込んでいた。
支配する者と支配される者。
目を背けられず、逆らえずに捕らえられた、俺の姿。
技術的には“失敗作”かもしれない。
だが、そこには嘘のない、生々しい何かがあった。
──それが、腹立たしくて、悔しかった。
現像してデータを渡した。
でも、胸のざわつきは消えなかった。
これが、俺の撮りたかった写真か?
違う。これは“撮らされた”だけだ。
悔しさと苛立ちが混じり合い、言葉にならない。
ため息とともに、ようやく椅子から立ち上がる。
この気持ちは、どうにもならない。
誤魔化すしかない。
酒に溺れ、誰かと話し、流されて、薄めたい。
誰でもいい。
何かに紛れて、“あいつ”を忘れたい。
──
立ち飲みバー。
薄暗く、人が多くて、後腐れなく遊べる場所。
が、目当ての店の前で、数人の男たちが揉めている。
最悪だ。
見なかったふりをして通り過ぎようと横目で見ると、がっしりした男たちが、一人を囲んでいた。
可哀想に、面倒事に巻き込まれて──と細めた目の輪の中に、サングラスとキャップで顔を隠した、見たくもない顔があった。
男の手が冬夜に伸び、その指が体に触れた瞬間。
「……邪魔」
声をかける間もなく。
冬夜は無言でバッグを振るい、肩から外したストラップを手繰り、
目の前の男の顔を横薙ぎに払う。
軽く叩くつもりだったが、男は派手に後ろへよろけた。
「っ……やば」
俺は咄嗟に走り出した。
男たちが驚いて声を上げるより早く、冬夜の手を引いて路地裏へ逃げ込む。
走って、曲がって、さらに裏手へ。
ようやく人通りのない場所まで辿り着き、冬夜の腕を放した。
「お前、なにやってんだよ」
「え、見てなかった? セクハラされたから、つい」
冬夜は涼しい顔で言う。
サングラスはあの人外じみた雰囲気を隠すのに一役かっているようで、心なしか口元が少しだけ緩んでいた。
「お前な……! ミュージシャンが暴力沙汰なんて、シャレになんねぇだろ」
「だから逃げたんだろ。正解だって。
……あーあ。最悪。しばらくあそこ行けないや」
冬夜はむくれたように呟いた。
「そもそもなんであんなとこにいたんだ?
どういう場所か分かってて行ってたのか?」
「うん。財布、探してた」
「……財布?」
「財布の一人に飽きちゃって。代わりを探そうと思って」
「……は?」
素で訊くと、冬夜は面倒くさそうに肩をすくめた。
「欲しい快楽あげるから、金ちょうだい、って話。
対価交換。俺もハッピー、相手もハッピー」
「……お前、それ本気で言ってるのか」
「もちろん。
音楽には金が必要だし、バイトより拘束時間は短い。
性欲は作曲の邪魔になるから、こうやって処理できれば一石二鳥」
どんな理屈なんだ、それ。
脳が理解を拒む。言ってる事はわかる。でもそれに頷くのは人として許されるんだろうか、とお綺麗に生きてきたわけでもないのに躊躇ってしまう。
「そうだ、お前、俺と寝る?」
突然の言葉に、俺はむせ返った。
「げほっ……何言ってんだよ」
冬夜は肩をすくめ、淡々と返す。
「あっそ。残念」
咳が止まらない俺をよそに、
冬夜はつまらなそうに肩をすくめた。
まるで「今日は雨か」くらいの温度で。
「探し直すのは面倒なんだよね。
相手はだいたい固定にしてるから、減らすなら補充しないと」
「……それ、誰にでも言ってんの?」
「うん。
気が合えば抱くし、飽きたら切る。
性格も性別も関係ない。
もちろんさっきのは論外だけど。
俺が優位じゃないとダメ。
音楽以外に支配されたくない」
その声に、開き直りも自傷もない。
ただ、淡々と事実を語っているだけ。
……今手を離したら、
また別の相手を探すのだろう。
別に構わない。
ただのクライアントだ。
首を突っ込む理由なんてない。
それなのに。
「……飯、行くぞ。腹減った。
お前もちったぁ落ち着け」
気づけば、声が出ていた。
「ん。別にいいよ」
神様みたいに綺麗なやつは、
口だけ微笑んだ。
自分でも、手を伸ばした理由はわからない。
──
少し歩いてラーメン屋に入る。
深夜まで営業している雑多な店。
カウンター席のティッシュがお辞儀をするみたいに折れていた。
一番上のラーメンを頼んで横を見るが、冬夜は何も頼まず、黙って水を飲んでいる。
「……食わねぇのか」
「太るからね。
いらないカロリーは音楽の邪魔になる」
ラーメン屋に入って食わないのは、マジで頭おかしい。
食え。席代払え。
俺は黙って箸を持った。
ラーメンは美味しい……ような気がするがどうにも味を感じない。
それもこれも隣のこいつのせいだ。
なんなんだ、こいつ。
他人に飽きる癖に、快楽を通して利用する。
触られるのは嫌がるのに、自分からは抱きに行く。
その矛盾に腹が立つ。
──俺だって抱く側が好きだ。
自分の意志で欲しい相手に触れたい。
でもそれは一方的な関係なわけじゃない。
大体、自分は無傷で、他人には全部を捧げさせる。
そんなの、ズルいだろ。
そこまで考え俺は思考を水で流し込んだ。
らしくない。
変わりに口を開いた。
「……データ、届いたか」
「ちゃんと届いたよ」
冬夜の声が、いつもより少しだけ柔らかかった。
「……ありがとう。
お前に頼んで正解だった。
あれは、俺でも知らない俺だった。
世界と繋がってる感じがして、
でも、今までのどの写真より、冬夜”だった」
一瞬だけ、ラーメンの湯気に混じる声。
それが“お世辞”じゃないと、
なぜか分かってしまった。
俺は黙って水を飲み干した。
──やめてくれって。
そんな顔、向けるなよ。
期待に応えたらしいことが、
妙に胸に残る。
それを嬉しいと思った自分が、
どうしようもなく腹立たしかった。
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