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同意書
診察の日。震える手で同意書を差し出すと、医者は目尻をやわらかく下げて微笑んだ。
「治療に前向きになってくれて嬉しいです。──では、さっそくですが、前回お話しした《感情性低温症候群》、いわゆるECSについて、もう少し詳しくご説明します。同時に、神木さんご自身のことも教えてください。性格や好きなこと、日常のことなど、いろいろと。それらを踏まえて、担当医を決定します」
その言葉に、思わずドキッとする。とっさに両手を揉んで、動揺をごまかした。
──自分のことを話すのが、一番苦手だ。
話そうとすると、どうしても声が詰まってしまう。
幼い頃、両親に怒鳴られたり、叩かれたりしたことが原因だった。
それ以来、上手く話せなくなった。
「神木さん?」
「ぁ……あ、の……」
「……まずはECSについてご説明しますね」
声が出ないことに気づいたのか、彼は優しくそう言って、静かに説明を始めた。
前に渡された資料をもとに、丁寧に、ゆっくりと。
「──ですので、オキシトシン誘導法……つまり、脳内ホルモンの分泌を促すことで、体温調整機能を回復させていきます。継続的な治療によって体温が安定し、感情の自発的な表出が確認されれば、完治と見なします」
「……お、オキシト、シン誘導法……は……」
震える声が、自分自身でもわかるほど情けなかった。
けれど彼は、笑わなかった。顔をしかめることさえしない。ただ、静かに続きを話す。
「患者さんの身体に、安全かつ優しく触れる方法です。……基本的に、患者一人に対し、専属の医師と看護師がひとりずつつきます。毎日、その接触を通じて感情と体温の回復を図っていきます。ただし、患者さんの心理的安全と尊厳は何よりも大切です。神木さんが嫌だと感じることは、絶対にしません」
唇を噛みしめながら頷く。
「……はい」
「まず、ECS──感情性低温症候群は、感情を持たないのではなく、感情を感じたくても身体がそれを受け取れない状態だと、私たちは捉えています」
そういいながら、彼は机の上に置かれた一枚の図を指さした。脳のイラストだった。海馬や扁桃体が、色分けされている。
「たとえば、好きなものを目の前にしても心拍が上がらない。胸が高鳴るべき場面で、何も感じない。……それは、感情の回路がどこかで断たれているせいです。神木さんの場合、どの段階でそれが起きているか、私たちはこれから探っていきます」
淡々とした口調だったが、どこか丁寧だった。
ここでは、誰にも責められず、拒まれない。それどころか、理解しようとしてくれている──そんな静かな空気に、肩から少しだけ力が抜ける。
「神木さん、ご自身のこと、話せますか? 些細なことでも構いません。好きな食べ物でも、最近見た夢でも。どんな些細な情報も、治療のヒントになります」
少しのあいだ黙ってから、声を落とすようにして口を開いた。
「……甘いものが、好き、でした……。子どものころ、母がたまに作ってくれて……でも、今は味が、よくわからないんです」
それが好きだったという感覚なのかさえ、わからない。もはや伽藍堂となった感覚に、ハッと小さく息を吐き出した。
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