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病棟散歩

 午後一時。  昼食を部屋で食べ終わり、相変わらずテレビの雑音を聞いて過ごしていると、ノックの音と鍵が解除される音がした。  開かれた扉を見れば、久我先生が立っていて、彼に軽く会釈する。 「こんにちは。お昼ご飯は食べましたか?」 「……食べました」 「うちは病院食にも拘ってるので、結構美味しいって患者さんからは評判なんですよ。神木さんはどうです?」 「……」  美味しいとか、あんまり、わからないな。  不味かったら食べれないから、きっと、そうでは無いんだと思う。 「はい。たぶん、美味しい」 「……味はあまり気にならない?」 「……食べれるから、美味しいと思います」  素直に伝えれば、先生は「確かにそうだ」と軽く目を見張る。その視点はなかったとでも言いたげに。 「食後の運動でもしましょうか。ずっと部屋にいても暇でしょうし、一緒に病棟内を少し歩きませんか?」 「……それは、絶対、でしょうか」  久我先生は一瞬だけ口角を上げる。 「絶対では無いですよ。嫌なら無理には言いません。ただ運動不足で夜眠れなくなったりするのは、困るかなぁ」  そう言われると、嫌だとは言えなかった。  たしかに、夜眠れなくなるのは困る。カウンセリングの後、眠ってしまったから、余計に心配になって、ゆっくりとベッドから降りた。  カードキーをポケットに入れ、先生に促されるまま部屋を出る。  お昼を過ぎたからか、病棟内にはチラホラと他の患者や医者に看護師の姿が見えた。  隣に立った久我先生に「こっちには団欒スペースもあるんですよ」と案内されて、廊下を歩いていく。  廊下を歩く靴の音がカツ、カツとやけに大きく響いて、心臓の音と混ざっていくようだった。  食堂の方から、わずかに香る出汁の匂い。  近くを人が通り過ぎる度、思わず足を止めて俯いてしまう。それは誰にも見られたくないという気持ちからだった。 「神木さん」 「ぅ……ご、めんなさい……」  なかなか進まない歩み。しかし久我先生はそれを怒ることはなく、「触りますね」と一言言うと背中に大きな手が触れる。 「この病棟にいるのは皆、ECSの患者さんに、その担当医と看護師だけです。だから、誰も貴方を傷つけませんし、仮にそんなことがあったなら私が許しません」 「っ、」 「ゆっくり歩きましょう。あのベンチまで。そしたら病室に戻って、ゆっくり過ごしましょうね」  先生の指さしたベンチは思っていたよりも近かった。  一歩足を出せば、もう一歩が自然と出て、そうしてベンチを目指す。  廊下には同じように散歩をしている患者がいる。  けれど、彼らと自分の違うところは、全員が担当医や看護師と手を繋いでいるということだった。 「……みなさん、手を繋いでて、すごい、ですね」  ふと言葉が漏れて、慌てて口を手で覆う。  先生はしかしその言葉を拾って、にこっと微笑んだ。 「あれも治療のひとつなんですよ。私達も手を繋ぎましょうか」 「えっ、」  人前で、そんなことをしたくない。  まるで子供のような、大人に縋るような、そんなこと。 「っ、ぃ、い、や……」  咄嗟に小さな声で拒否をする。けれど彼は怒るどころか眉を八の字にして薄く笑った。 「すみません。そうですね、まだ人前でするには段階が早い」 「……」  もやっとしたものが、胸に生まれる。  彼は悪くはない。ただの治療として提案しただけのこと。それなのに謝らせてしまった。    ベンチに辿り着き、今度は急ぎ足で病室に向かう。  カードキーをかざし、部屋に入ってすぐ、ベッドに座り込んだ。  疲れた。なんだか、ひどく疲れた。  こてんと後ろに倒れると、先生が布団を掛けてくれて、またもや「触りますよ」と手を取られる。  じわっとあたたかさが広がった。 「良くできましたね。今日はもう、夜ご飯を食べて、お風呂に入って眠るだけですからね」 「……」  ベッドの中で、小さく頷くことしかできなかった。  体が、冷えている。  触られたところはあたたかいのに、芯の方はまだまだだ。  これが本当に、元に戻るのだろうか。  考えている間に、何かを話していたらしい久我先生は、「じゃあまた、明日に」と言うと病室を出ていったのだった。

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