21 / 31

自分次第

 キャベツの上にドレッシングをかけて、一口。  その瞬間、思わず顔がくしゃっと歪んだ。 「……すっぱい……」  そう呟けば、久我先生は小さく笑った。 「それは苦手でしたか」 「ちょっと……」  恥ずかしくなってうつむいたけれど、先生は怒るでもなく、ただやわらかく微笑んで、箸を持つ手元をそっと見守っていた。 「でも、酸っぱいって感じられたのは、すごくいいことですよ。ちゃんと神木さんの体が反応してるってことですから」  そう言うと「失礼します」と先生の指先が、ぽんと僕の頭を優しく撫でた。  こそばゆいけれど、どこか安心する手のひらの温度。 「今日の治療、とてもよく頑張りましたね」  その言葉が、胸にじんわりと染みこんでいく。  たしかに、頑張ったと思う。  薬のおかげで恥ずかしさはあまり感じなかったけれど、初めて他人に性器を触れられ、絶頂にまで至ったのだから。 「……次も、また……ああいう感じ、ですか」  おそるおそる尋ねると、先生は少しだけ黙って、それからゆっくり頷いた。 「神木さんが望むなら、今の段階をもう少し続けいきます。この先の治療をどう進めるかは、一緒に相談して決めていきましょう」 「……僕が、決めていいんですか」 「もちろんです。私たちは、神木さんがどうしたいかを一番にしたい。だから、無理はしないで。……ちゃんと、聞かせてくださいね」  先生の言葉を胸の奥で転がすように反芻した。  どうしたいか。この後のことなんて考えたことなかった。  でも、聞いてくれるなら……考えてみてもいいかもしれない。  そっと目を伏せて、小さくうなずいた。  それだけで、先生は嬉しそうに微笑んだ。 「ありがとうございます。神木さんが『こうしてみたい』と伝えてくれるだけで、私たちは進めることができます」  優しい声。安心する言葉。  それらが静かに心に染みていく。  ようやく感じられた味も、あたたかさも、久我先生がくれたもの。  だから、少しだけ勇気を出してみようと思った。 「……あの、先生」 「はい?」 「次も……同じくらい、で……お願いできますか」  まだ怖さはあるけれど、逃げるほどじゃない。  いきなり先に進むより、少しずつがいい。  今日の治療だけでも、体が少し温かくなっているのがわかるから。  そう言うと、先生は穏やかに笑って、ゆっくりと頷く。 「もちろんです。ゆっくりと、神木さんのペースでいきましょう」  ホッと小さく息を吐いた。  明日からも頑張らなきゃ。 「あ……明日も、治療、ありますか?」  そう尋ねると、先生は少しだけ首を傾げて、いたずらっぽく微笑んだ。 「ありますよ。ただし、『無理に』はありません」 「……?」 「神木さんが『できそう』って思ったら、続けましょう。そうじゃなければ、休んでも構いません。……どうしますか?」  問いかけられて、少しだけ考える。  体は辛くない。むしろぽわぽかしている。 「……明日も……やってみたい、です」  その言葉に、先生はまた微笑んだ。  まるで、何より嬉しいことを言われたかのように。 「はい。わかりました。では明日も食事と一緒にお薬を出しておくので、食後に飲んでくださいね」 「……あの薬、結構ぼんやりしちゃって」 「気分が悪くなるとか、そういったことはありましたか?」  首を左右に振る。  ぼんやりしすぎて、何も考えられなかったから、それだけが少し不安で。 「……何も、考えられなくなって、ちょっと不安です」  先生は僕の言葉を聞いて、少しだけ表情を引き締めた。  でも、それは怒っているとか、困っているというよりも、真剣に向き合おうとしてくれているのがわかる顔だった。 「そうでしたか。それはきちんと伝えてくれてありがとうございます。……不安になったんですね」 「……はい」 「お薬の作用で、思考がゆるやかになることはあります。リラックスさせるためのものなので、ある程度は『考えなくていい状態』を作るんです。でも、心配になってしまうのは自然なことですから……明日は少し、量を減らしてみましょうか」 「減らせるんですか……?」 「ええ、様子を見ながら調整していけます。神木さんが落ち着いて治療を受けられるのが一番ですからね」  そう言って、先生はまた優しく笑った。  その笑顔を見て、また少しだけ胸の奥が、あたたかくなる。 「……ありがとうございます」 「いえいえ。こちらこそ、ちゃんと教えてくれてありがとう。……神木さんは、今日だけでとてもたくさんの頑張りました。だから今夜は、ゆっくり休んでくださいね」  そう言いながら、そっと僕の手を取った先生の手は、あいかわらずあたたかくて。  そのぬくもりを感じて、自然と口角が緩く上がったのだった。

ともだちにシェアしよう!