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同意の温度
ひとりになってからも、しばらくあの場所にいた。
けれど、することも無くて、それなら部屋でごろごろしていた方が楽かもしれない、とそう思い直して病室へ戻ることにした。
廊下の先に、久我先生と佐伯さんの姿が見える。
二人は何か話をしているようで、邪魔をしないように気配を消してそろりそろりと歩いたのだけれど。
「おかえりなさい!」
「っ、ぁ……」
「神木さん、おはようございます」
「お、おはようございます……」
結局、すぐに気づかれてしまった。
軽く会釈を返すと、佐伯さんがいつもの笑顔で話しかけてくる。
「どこまでお散歩してきたんですか?」
「あ……あっちの、日当たりのいいところで……。他の患者さんとも、話しました」
「楽しかったですか?」
「えっと……あの、話してくれる子だったから、多分」
「それはよかった。僕たちからも少しお話いいですか……?」
『あ、は、はい』
そうして三人で病室に戻る。
ベッドに腰を下ろした途端、二人は一枚の紙を差し出してきた。
「こちらは治療に関しての説明書兼同意書です。明日からの新しい施術の途中で必要になる可能性があるので、先にお話しておこうかな〜と」
「ぁ……」
「まず、体に施す拘束が少し多くなるかもしれないのと、もしかすると陰茎側――尿道からも器具を入れることになるかもしれません。その場合、前立腺を外側と内側の両方から刺激していきます」
「にょ、尿道……?」
「はい」
久我先生の説明で、思わず声が上ずった。
頭の中に『痛み』という言葉が浮かび、体が強張る。
「い、痛いのは嫌です……」
「そうですよね。でも、お薬で意識をぼんやりさせた状態で行うので、痛みはほとんど感じません。もちろん、痛くないように調整もしますよ」
久我先生の声には、いつもの通り優しさがあった。
責めるでもなく、押しつけるでもなく、ただ「安心していい」と告げるような口調。
佐伯さんも穏やかに頷いている。
「それでも不安なときは、いつも飲んでもらってるリラックスできるお薬と一緒に、快感を増幅させるお薬を使うこともできますよ」
「えっと……それは……」
「いわゆる、媚薬ですね」
「!」
媚薬だなんて、都市伝説だと思っていた。
本当に存在するんだ……。
戸惑っていると、久我先生が「失礼します」とそっと僕の手を取る。
「ここに入院された頃より、ずっと温かくなりましたね」
「ぁ……」
優しい手つきで手の甲を撫でられる。
そのぬくもりに胸がドクンと跳ねた。
同意書に視線を落とす。
「……もし途中で怖くなったら、その……媚薬、くれますか」
「もちろん。神木さんのペースで大丈夫です」
「……こ、怖くて、『やめて』って言っちゃうかも」
「構いません。それは神木さんの権利です。我々は貴方を傷つけません」
その言葉にゆっくりと頷く。
そっと息を吸い、ボールペンを手に取り、日付と名前を記入して、紙を差し出した。
「ありがとうございます」
久我先生は微笑み、同意書を佐伯さんへと渡す。
「リラックスできるお薬の量ですが、慣れるまでは今のままで、慣れてきたら少しずつ減らしていく感じでいいかな」
「あ、は、はい……それが、いいです」
「わかりました。ではしばらくは昨日と同じ量にしますね」
治療のためとはいえ、体が少しずつ変わっていく。
『気持ちいい』と感じる場所が増えていくことに、恐れと戸惑いがないわけではない。
「……『普通』に、なれるのかな」
ぽつりと零した言葉に、二人は眉を八の字に下げた。
「神木さん。『普通』なんて、誰かが勝手に作った基準です」
久我先生の言葉は、静かだ。
「神木さんは、神木さんのままでいい。我慢せず、思うように生きてください」
「そうですよ」
佐伯さんも柔らかく微笑む。
「他人と比べずに、自分の心に素直でいること。それがいちばん自然で、美しいことだと思いませんか?」
二人は、決して傷つけようとしない。
いつも尊重してくれる。
その優しさに包まれて、胸の奥がじんわりと温かくなった。
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