34 / 35
心臓の音
翌日の治療は、久我先生の言っていた通り、いつもよりも明るくカウンセリング室に近い雰囲気の部屋を用意された。
薬は飲まずに、少しもぼんやりしない状態で、ベッドに腰かける自分と同じ目線の高さになるよう、久我先生もすぐそばの椅子に座っている。
佐伯さんもニコニコしながらそこに居て、飲み物や、普段は置かれていないお菓子を用意してくれていた。
「話をしていて、少しでも違和感を感じたら教えてね」
「はい」
「──さて。じゃあまず、私から話しても大丈夫?」
小首を傾げた先生にドキッとしながら、ゆっくり頷く。
今のドキ、は何だったんだろうと引っ掛かりながら。
「ありがとう。私はね、今日はとにかく神木さんを褒めてあげたかったんだよ」
「え……」
「これ。この紙に書いてあるのは当初予定していた神木さんの治療の進行予定。今日は──ここ。でもこの内容は既に済んでいる」
「ぁ、そ、そうなんだ……?」
「そう。嫌がることなく、素直に治療を受け入れてくれる。それに、私たちが気付けない不安な気持ちを、言葉にしてくれる」
紙から顔を上げると、先生と目が合った。
「ここの治療は特殊だから、どうしても受け入れられない患者さんもいる中で、自ら"頑張りたい"と言ってくれる君は、もう既に、とても頑張っていると思う」
「ぁ……そ、そんな……」
「ううん。本当だよ。だから神木さん自身も、自分のこと褒めてあげてね」
自分のことを褒める。
そんなことを言われても、どうすればいいのか分からなかった。
「……自分で、褒める……?」
「そう。例えば、今日ここまで来られたことでもいいし、怖かったことを、ちゃんと私たちに伝えられたことでもいい」
「……」
「神木さんは、できたことよりも、できなかったことのほうを気にしてしまうでしょう?」
図星だった。
思わず目を逸らすと、先生が小さく笑う。
「だから今日は、できたことを一緒に探してみようか」
「……できたこと」
「うん」
先生は急かさず、こちらが考えるのを待ってくれる。
しばらく考えてから、ぽつりと口にした。
「……治療、逃げなかった」
「うん」
「ちょっと怖いこともあったけど……ちゃんと、頑張った」
「そうだね」
「あと……寂しいって、言えた」
「それも、とても大切なことだよ」
ひとつずつ言葉にするたび、胸の奥が少しずつ軽くなっていく。
「……自分で言うと、なんか変な感じがします」
「最初はみんなそうですよ」
横から佐伯さんが笑いながら口を挟む。
「でも、神木さんが思っている以上に、ちゃんとできてることありますからね」
「……そう、なのかな」
「そうですよ」
即答されて、思わず二人の顔を見る。
二人とも、当たり前のことのように頷いていた。
「じゃあ今日は、治療をする前にもう一つだけ」
「……?」
「神木さん、自分で『よく頑張った』って言ってみようか」
「え……」
そんなこと、したことがない。
恥ずかしくて俯きそうになったけれど、先生はただ静かに待っている。
やがて、小さな声が喉からこぼれた。
「……よく、頑張った」
「うん。とっても上手」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がまた、きゅっと熱くなった。
このなんともいえない不思議な感覚。
嬉しいような。
恥ずかしいような。
そして――少しだけ、もっと知りたいと思うような。
「……先生」
「はい」
「今日も……頑張ってみたいです」
そう告げると、久我先生は柔らかく微笑んだ。
「うん。じゃあ今日は、神木さんの気持ちを考えながら進めようか」
「はい」
「今はどうかな。寂しいって感じる?」
先生の言葉に首を振れば、「よかった」と言って、彼が立ち上がった。
「ベッドに座っても?」
「ぁ、はい」
「ありがとう。このまま寂しくならないように抱きしめながら触らせてもらうね」
「っ、き、緊張します」
「そうだね。治療中に抱きしめるのは初めてだからね。あまりにも恥ずかしくなったら私の心臓の音に集中していてね」
「心臓の音に集中……?」
「そう。ほら、近いでしょう?」
久我先生がゆっくりと腕を広げる。
少しだけ迷ってから、その胸元へ身体を預けた。
「……失礼します」
「うん。ゆっくりでいいよ」
背中に腕が回る。
ぎゅっと強く抱きしめるのではなく、逃げたくなればすぐに離れられるくらいの優しい抱擁だった。
それなのに。あまりにも近い。
先生の体温も、呼吸も、胸の奥から響いてくる鼓動も、全部がはっきりと伝わってくる。
とくん。
とくん。
「……聞こえる?」
「……はい」
「これが私の心臓。神木さんの心臓も、今はきっと少し速くなってるね」
「……」
言われて意識してみる。
確かに、速い。けれど怖いわけじゃない。
むしろ、この音を聞いていると不思議なくらい安心する。
「……先生」
「はい」
「……ドキっとすることがあるんです」
「うん」
「先生に撫でられた時も……今も」
口にすると、また胸が熱くなった。
「これは……治療のせいですか?」
久我先生はすぐには答えなかった。
ただ、背中をゆっくり撫でてくれる。
「どうだろうね」
「……?」
「今は、無理に答えを出さなくてもいいんじゃないかな」
「でも……知りたいです」
「うん。じゃあ、少しずつ探していこう」
耳元でそう言われて、また心臓が大きく跳ねた。
「……今も、ドキっとしました」
「そう」
先生がくすりと笑う。
「じゃあ、今日の治療はそれを知るところから始めてみようか」
「……はい」
怖さよりも、知りたい気持ちのほうが大きかった。
この胸の奥に生まれる、不思議な感情。
それが何なのか、分からない。
けれど、先生の腕の中なら――少しずつ知っていける気がした。
ともだちにシェアしよう!

