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第1話
今年の夏も猛暑が続くらしい。
太陽が一番高い時間帯の帰宅。全員もれなく補習に来いだなんて、だったら夏休みなんて必要ないんじゃないか? ――おそらく殆どの高校生が抱くであろう疑問を、春陽ももれなく考えた。
だったら部活でもしたらいい。そしたら帰宅は夕方だ。なんて、自分には程遠い。CMに出てくるような、爽やかできれいな汗をかき、青春を謳歌する……そんな高校生にはなれなかった。
かん、かん、とアパートの階段が軽い音を響かせる。ありきたりな鍵で、安くて老朽化の進んだ玄関のドアを開ける。
「ただいま……」
「おかえり」という声はない。おかえりと言ってくれる人は、去年の暮れに亡くなった。
朝からシンクに置いたままのグラス。軽く洗って、一杯の水を飲んだ。そのまま鞄も置かず、空いた手に食パンの袋を取り部屋へ入る。高校の教科書が場所を取る小さなテーブルの上に食パンを投げて、クーラーをつけた。1Kの小さなアパート。他に誰もいないんだから別に不便はない。
「あっちぃ〜……」
食パンより先に麦茶を持ってくるべきだったかもしれない。古いエアコンは如何せん威力が弱くて、すぐに部屋が涼しくなることはない。大家さんに抗議して、エアコンだけでも新しくして欲しいものだけど……。
とりあえず腹を満たそうと、食パンを取り出す。かぶりつこうと口を開けた瞬間、携帯が鳴った。バイト先の店長からだ。
「もしもし」
『あ、シュン。俺だよ』
聞き慣れた若い声が返ってくる。どうやら食パンはしばしお預けらしい。手を伸ばして取れる適当な皿に乗せておいた。
『今日は行ける?』
「行けますよ。誰です?」
会話をしながら仕事ノートを手に取る。
『松前』
「松前……あぁ」
ノートを捲って、過去の記憶を探りだす。
「里山商事の社長さんだよね? あの少しハゲた」
『そうそう。よく覚えてるね』
「えぇ、まぁ」
仕事熱心なわけじゃない。顧客情報はこうやってメモしておかないと、後々困る。
『五時に迎えに来るから』
「はーい」
返事をして電話を切った。
「……五時か」
壁の時計は午後一時を指している。仕事までまだまだ時間はある。とりあえずシャワーを浴びて、汗を流そうか。
「あ、忘れてた……」
パン、食べようと思ってたんだ。
近年の物価高は目に余る。少し前まで、百円ちょっとで食パンが買えていたのに、今は倍に近い値札をちらつかせている。
『生きるのにはお金がかかる』
春陽はそれを同年代の誰よりも分かっているつもりだった。
この世界は弱者に厳しい。いや、表面的には優しいつもりだ。数々の生活保護制度があって、申請すれば貰えるものもちゃんとある。
ただ、春陽はその手続きが嫌いだった。援助を申請するには、必ずバース性が付きまとう。バース性とは、男女の性別とは別に存在する第二の性だ。
ああ、Ωなんだね……大変でしょう。と役所の人間はさも慈悲を含んで口にする。けれど、目はそう言っていない。明らかな軽蔑を乗せて春陽を見るのだ。
小学校に上がる前に、バース性の検査をする。そこでΩと分かれば、人生終わったようなものだ。ただ、小さな子供はそれを現実として受け止めるのは難しい。
現実的に理解するのは、中学校に上がる際に二度目の検査を受けた時だ。成長と共にバース性が変化している者も僅かに存在する。だから、人生で二度検査を受けるのだ。
春陽も、二度目の検査の時に自分がΩだと知った。それまでは知らなかった。
いや、知らなかったというより、忘れてしまったのだ。春陽は幼い頃にアパートの階段から落ちてしまったせいで、それまでの記憶を失ってしまった。
そんな春陽に、母はわざわざΩだという現実を教えていなかった。その夜に母と大喧嘩をした。どうして黙っていたのかと、春陽は母を問い詰めた。ごめんね、と母は謝るばかりだったけれど、春陽はただ絶望した。これからどうすればいいのか、と。
性別問わず、子供が産める身体。必ずしも、そこに結婚という概念がなくても、相手は複数でも良い――それがこの世界のΩの一般論だ。
少子化対策にもってこいだとか、聞いて呆れる。だって、万が一身籠ってしまっても、制度を利用すれば無料で堕胎が出来るのだ。ちゃんちゃら可笑しな話である。
その上、総じてΩは劣等だ。格はβの方が上だし、何をするにも差が出来る。発情期が来れば、狂ったように子作りしか出来なくなるし。
唯一の利点を上げるなら、αと一緒になれることくらいか。身体の相性が良くなくとも、とりあえずαはΩを欲しがる。βよりもΩの方が、αを産める可能性が高いから。ただし、100%ではないところが救いようがない。子供が産まれてもαとは限らない。
もちろん、αであれば言うことない。称賛され、大切にされる。βであればまだ良い。Ωなら最悪だ。低俗が低俗を産んだと罵られ、捨てられることだってある。
――さて、話を戻そう。そういうわけで、春陽は必要最低限の生活保護しか受けていない。
一つは親なしの子供への保護。無論、春陽は親に捨てられた訳ではない。唯一の肉親である母には愛情をかけて育ててもらったと自信がある。父親や祖父母は知らない。会ったこともないから、きっといないんだと思う。母の葬儀にだって、誰も来やしなかった。
もう一つはΩへの保護。最近では発情期を完全に抑制できる薬が開発された。その薬が開発されるまで、発情期になれば見境なくフェロモンを撒いて種を欲したが、今や薬のお陰で誰彼構わず、ということはなくなった。
きちんと薬を飲み続ければ、発情期を迎えずに一生を終える事だって出来る。こういったものが無償で貰えるのは本当にありがたい。
ただし薬にも例外があった。本物か、もしくはそれに近いほど、肉体的にも精神的にも相性の良い相手には欲情する。裏を返せば、そんな相手に出会ってしまったら最後、二度と離れることは出来ないという。
出会った瞬間に解るとか、神秘的でドラマティックな話だと、テレビでは度々テーマにされる。が、当の本人にとっては神秘でもドラマティックでも何でもない。
相手の人間性も分からないのに、出会った瞬間に自分の全てを明け渡してしまうだなんて、自我も何も忘れて欲情するなんて、そんな酷い話があるだろうか。
現に、心に決めて一緒になった人がいたとしても、その後に『本物』が現れれば、本物の方が優先されるのだ。今までどんなに愛し合っていたとしても、本物にしか情が湧かなくなる。
『本物』に出会うのは、奇跡に近いほど稀なことだと言うけれど、ゼロではない。現にそうやって、家族も、子供も捨てるしかないΩの話も、春陽は知っている。
好きでこんな性に生まれたわけじゃないのに、相手すら選べないなんて。……どんな地獄だろう。
仕事までの間の時間潰しに、と真面目に課題を解いた。集中していると時間を忘れがちになる。スマホのアラームが「ピピピ」と鳴って春陽をここに呼び戻す。
時刻を確認する。そろそろ用意しないと間に合わないな、と小さなクローゼットを開いた。女物の服が所狭しと並んでいる。
「松前のオッサンは……好きな色ピンクか。この前はこれ着たな……じゃあこっち」
フリルがついたピンクのワンピースを手に取る。こんな服着る男は、世の中そうそういないだろう。春陽だって、仕事じゃなければ一生着る機会はない。生きていく為とはいえ、笑えてくる。
春陽は唯一の肉親である母親が死んでから、売春をして生計を立てている。しかも男相手に女の格好して。意外と、そういうのが好きな男が多いようで、ほぼ毎日仕事が振られるし、近頃は春陽を指名してくるおじさまもいたりする。
もちろん、他にも善良なアルバイトはたくさんある。だけど、春陽には親が残した数千万という借金があった。利子を付ければもっと高額。それを返すために手段は選べないし、哀しいかな、こういった業界では、Ωという付加価値は高値が付くのだ。
鏡とにらめっこしながら化粧をする。男のΩは中性的な見た目が多いのだが、それでも春陽は顔だけは誰にも負けていない。普段は無造作に束ねただけの長髪を解いて、化粧をすれば見た目は完全に女の子だ。
「今日も美人だぜ、俺」
鏡に映る商売道具に賛辞を贈る。いや……褒め言葉じゃない、自分に対しての皮肉だった。
今ここにいるのは『瀬野春陽』じゃない。自分によく似た、『シュン』という別人だ。
玄関のチャイムが鳴り、春陽は「はぁ~い」と可愛いらしく返事をして出る。ここから春陽のお芝居は始まっている。
「おはようシュン。今日も可愛いなぁ」
「もぉ、店長ってば」
えへへっ、と少し照れた様に笑う。これもオヤジ受けする技の一つなのだ。
「……それにしてもシュンはよく働くな。関心するよ」
車を走らせながら、店長はそう口にした。
「早く借金返したいからね。あ、この前稼いだ分、ここに入れておくね」
運転座席の後ろポケットに、遠慮なく茶封筒を押し込む。実のところ、春陽はこの人に金を返している。以前、借金取りが店にまで来てしまった際に、店長が一括して払ってくれた。だから今はこの人から金を借りているようなものだ。
「何だぁ? シュンは早く金を返して俺から離れたいの?」
「ううん、そこまで言ってないよ」
もちろんそう言う店長も本心ではない。だから、春陽は笑って返した。
シュンて言うのは源氏名。本名の『春』からとった。『シュン』はとっても可愛いくて、仕事熱心なのだ。
松前との待ち合わせ場所につく。
車から降りる直前に、店長はいつも通りにシュンのバッグの中身を確認した。
「もしもの時の薬もちゃんと持ってるね」
「うん。大丈夫」
「念の為、行為の前にヒートを抑制する薬も忘れずに」
「はぁーい」
分かってます、とシュンは手のひらを上げて返事をした。
仕事に必ず必要なもの。それは相手が発情期を誘発する薬を使ってきた際の特効薬だ。そもそも、そんなもの一般的な市場には出回らない。裏のルートで売買される、麻薬の様な物だった。幸いにも、シュンはそれを使われた経験がない。
しかしながら、使われたことのある同僚の話は聞いている。散々な目にあって思い出したくもない、と泣いていた彼女を思い出す。彼女に残っていた記憶は恐怖だった。
金持ちのおじさまとのデートは食事をしてからホテルだと決まっている。
「シュンちゃん、待ってたよ」
松前はシュンの腰に手を回しながら言う。
「お待たせしてすみません、叔父様」
にこり、と笑ってシュンは返す。
「さぁ食事にしようか。お腹空いたろう」
今日は高級フレンチをご馳走になる。普段の生活からは想像出来ないような豪華さだ。これをタダで……いや、金を稼ぎながら頂けるところは良い。お腹も財布も大満足。
ただし、この後にしっかり仕事すれば……の話だけど。
食事が済んだらホテルへ直行する。
松前は鼻の下を伸ばしながらシュンの服に手をかける。だけど全部は脱がさない。服装を乱すのがいいらしい。
「シュンちゃん、これ何だか分かるかなぁ……?」
「えぇっ……」
松前が鞄から取り出したのは大人のオモチャ。
げ〜っ……とシュンは心の中で口角を下げた。オモチャは嫌いだ。そういうことしたがるおっさんは、大概性格が悪い。と思っても、拒否は出来ないけれど。
シュンは過ぎった不快感を頭の端に避けて、いつも通りにオモチャを触る。
「これで何するんですか? 叔父様」
さも"わかりません"って感じで言う。
松前はニタニタ笑いながらシュンの頬をオモチャで軽く叩いた。
「これでシュンちゃんを気持ちよ~くしてあげようね」
……うーわぁ。キモい~……。仕事でなけりゃ、絶対御免だ。
仕事仕事と割り切るからこんなオッサンとのセックスもできる。じゃないと、何で好きでもない相手のモノをしゃぶらなきゃならない? 何でこんな愛情のないものを穴に入れないといけないのか……。
正直、何度ヤッても不快感が払拭されることはなかった。
松前は自分の事をαだと言っていた。店長からも、最初に聞かされていたから、それは本当なのだろう。
けれど、松前は偽物だと本能で分かった。最近は、継続摂取することでβがα化することの出来る薬があると聞いた。恐らくそれで変化した、偽物のαだ。
偽物とヤッた所で、何も楽しいことはない。純粋なαとの行為でも、体が燃え上がるような事はなかった。きっと、『本物』の相手でも、それに近しい相手でもないからだろう。
『本物』となら、どれだけ気持ちよくなれるんだろうか……。もしくは発情期が来たら? 不快感も全部忘れて、ただ快楽だけを求める行為は、果たして幸せなのだろうか。
そんな疑問を持った事がないわけではない。けれど、どうにも現実的に想像することはできなかった。
「んっ……ふぅ……」
「あぁ……可愛いね……シュンちゃん」
お尻にバイブを咥えたまま、シュンは松前のモノを舐める。端から見れば最悪な格好だ。こんなので興奮するオッサンの心理がシュンには分からない。
「んー……ふっ、あ……」
「こら、放したら駄目だろう……」
息苦しさに口を離すと、松前はシュンの頭を押さえつけて無理にねじこんでくる。亀頭が喉奥をついて、吐きそうになる。
「おやおや……泣くほどいいのかい?」
不快で苦しくて、瞳に涙を潤ませるシュンを見下して、松前は笑う
……んなわけないだろっ! と、文句を言いたいけれどそれは叶わず、シュンはコクコクとうなずいた。
「……叔父様っ……もう許して下さい。叔父様のがいい……」
全く何の遊びだろうか……。シュンは松前を見上げて訴えた。
「そうか……そんなにこのチンポが欲しいのか……」
「はい……、叔父様の大きなチンポが欲しいです」
松前は満足そうに笑って、シュンのお尻からバイブを抜き、変わりに自身を挿れた。
ここまでくれば後は早い。
シュンは痛みに耐えながら、必死にお尻の穴を締める。それでも、Ωの自分の中は男にとって極上らしく、あぁ良い、と褒められた。
松前の気持ち悪い声と息がかかる。
……早くイけ。
…早くイけ。
早くイけ!
「あぁ……シュンちゃん、イクよ……あぁ、イク!」
松前は宣言しながら果てる。
……終わった。
安心の余りシュンの体から力が抜けた。
松前に家の近くまで送らせる。
「じゃあシュンちゃん、また」
「はい。またご指名お願いします」
シュンはペコリと頭を下げて車を見送った。完全に車が視界から消えるのを待って、少しふらつく足取りでアパートへ帰る。
「……ただいま」
返事をしてくれる人はいない。死んだ母の写真の前を汚れた身体の春陽が通る。
……ごめん、母さん。女手一人、あんなに無理して働いて育ててくれたのに……。俺は早く借金を返したいばっかりに、こんな汚い仕事してる……。
机の上に投げたままの仕事ノートに今日の事を書き込む。
どんな服装で。どんな食事で。どんなセックスで……。書いてるうちに、いつも情けなくなってくる。
そして最後に書く、今日の儲け。
三十万。全部返済金だ。
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