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第4話
〈第四話〉
陽月が帰宅すると、待ち構えていたように兄の陽太が出迎えた。
「お帰り陽月。どこへ行ってたの?」
その声かけに、これは面倒くさくなりそうだ、と陽月は思った。陽太は普段、陽月のことを「ひい」と愛称で呼ぶ。「陽月」と呼ぶ時は、決まって何か言いたい事がある時だ。
それに、何となく声が冷たい。何か怒られるかもしれない、と陽月は本能的に身構えた。
第二のバース性が表立つ世の中で、実は第三のバース性、ダイナミクスが存在する。世間的に注視されていない理由は、単に性行為上の趣味趣向と見なさているからだろう。
蓋を剥がせば、れっきとした優劣の付く性であり、陽月たちのような上流階級社会においては、α・Ωと同等に重要視される。
α且つDomであれば言うことがない。それだけでヒエラルキーの頂点に君臨出来るからだ。
「陽月」
名前を呼ばれて、おずおずと陽太を見た。けっして高圧的ではない、優しい情の乗った瞳で陽太は陽月を見ていた。
ダイナミクスを知らなければ、陽太はただの優しい兄だ。しかしながら、陽太はαでありDomである。この兄こそ、ヒエラルキーの頂点に君臨出来る人物だった。
対する陽月はαではあるが、Switchである。もちろん他人の前では圧倒的Domとして振る舞えるが、陽太の前ではどうしてもSubとしての本性が出てしまう。つまりはどうやったって勝てないのだ。
「どこへ行っていたの?」
陽太が先程の質問を繰り返す。
別に……と吐いて、陽月は陽太から視線を逸らした。
「……春陽に会ってたんじゃないの?」
う、と陽月は言葉に詰まる。陽太にバレないように上手くやったはずだったのに。さては加谷の奴、喋ったな……?
白を切ろうとしたり、考え込んだり、拗ねたり。陽太にしてみれば、陽月の百面相はとても分かりやすい。最も、こんなに表情を変えるのは自分の前だけだと陽太も知っている。他人とのやり取りにおいては、ちゃんとポーカーフェイスが出来るのが陽月だ。
「加谷から聞いたわけじゃないよ。春陽が会ったって言ったんだ」
はぐらかす必要はないと思い、陽太は陽月に真実を伝えた。やっと自分を見た陽月の瞳が、大きく見開かれる。
「黙っててごめん。ひいが会うずっと前から、僕ははるに会ってたんだよ」
いつも勝ち気に笑う陽月の瞳が悲しげに揺れる。ああ、こんな顔をさせたい訳じゃなかったのに……。
「……ずっと前って……いつから?」
「はるが今の仕事を始めて、すぐの時かな」
「……何で黙ってた?」
「会って欲しくなかったからだよ」
何でだよ! そう吐いて、陽月は陽太の服を掴む。
「俺が春陽に会いたいのは、陽太だって知ってるだろ!? なのに、なのに……何で……?」
あんなに威勢良く掴み掛かってきたのに、もう語尾が弱々しい。陽太は落ち着いた声色で告げた。
「ごめんね、ひい。……今のはるを取り巻く環境が危険だったからだよ。はるが相手にしてるのは、一般人じゃない。ほとんどがどこかの社長だったり、裏に通じてる。ひいはまだ子供だから、危ないと思うんだ」
陽太は宥める様に言うけれど、陽月にはそんなの関係なかった。ただ会いたい。それだけ。
「子供じゃない!」
「未成年は子供だよ。取引経験も浅いのに、下手したら春陽も僕達も足元掬われる」
残念だけれど言い返せなかった。陽月と陽太は10歳も年が違う。仕事や契約関連につけても、二人にはそれだけの差がある。
「……黙っててごめん。だけど、はるは絶対に僕が連れ帰るから。ひいはそれまで待っていて……?」
「………嫌だ」
「ひい? いい子だから」
「嫌だっ!」
諭したところで、陽月は言い出したら聞かない性格だと、陽太はよく知っている。短いため息をつくと、諦めたように陽太は言った。
「じゃあ、会う時は必ず僕に教えて」
陽月にとっては正直不服だった。けれど、黙って頷く。
「良い子。約束だよ」
陽太はにっこり笑って、陽月の頭を撫でる。良い子、良い子を繰り返しながら優しく抱きしめると、陽月は冷静さを取り戻していった。
陽月の機嫌が悪い時は、いつもこうやって陽太が宥めていた。何かルールがあるわけではない。一緒に育っていくうちに自然に培われた、二人だけのPlayだ。
もう大丈夫、と陽月の方から離れる。陽太が、残念、と思ってしまうのはDomの性かもしれない。いつだって、甘えてくれていいのに。
「……ねえ、ひとつだけ教えて……」
陽月はうつむいたまま、ぽつりと呟く。
「何?」
「春陽、ひな兄のこと覚えてた?」
ずっと気になっていた。どうやら本当に、春陽は陽月を覚えていない様だ。いくら小さな子供だったからって……陽月は覚えているのに。
「覚えてないというより、はるは記憶を喪失してるみたいだよ。小さい頃のことは一つも覚えていないって」
以前、春陽がそう言っていた。小さい頃、階段で足を滑らせ頭を強打したのだ、と。数日間意識も戻らす、母にたくさん心配をかけた、と。
「……分かった」
陽月は素直に頷く。
本当は覚えていて欲しかったし、再会した時に喜び合いたかった。他人のふりをされた時は、怒りというより悲しかった。
自分はこんなにも春陽を必要としているのに、春陽は自分の事なんて、これっぽっちも必要としていなかった。ただ、その現実を認めるのが辛い。
記憶がないのなら、しょうがないんだ……。陽月はそうして春陽への不満を飲み込んだ。
※※※※※
いつもの待ち合わせの場所にいると、春陽は急いで駆けてきた。
「高橋さん、お待たせしてすみませんでした!」
陽太を見上げた瞳が腫れぼったい。即座に、泣いたんだな、と陽太は理解する。本当なら、今ここで抱きしめたい。どうしたの? と声をかけたい。今はまだ、それが気安く出来る間柄ではなかった。
「じゃあ行こうか」
陽太はいつも通り春陽を連れ、レストランに入った。
食事は変わらず摂ってくれる事に、多少なりとも安心した。けれど、デザートのアイスクリームまではいらなかったみたいだ。
気分転換に、と場所を外に移す。整備された川沿いの道を並んで歩いた。日がくれたとしても、夏の夜は些か暑すぎる。珍しく判断を誤ったのかもしれない。涼しい屋内にすれば良かった。
「元気がないね」
うつ向いたままの春陽に言うと、そんなことないです、と返された。そして
「すみません」
と顔を上げて笑う。春陽に似合わない、無理な笑顔だ。
「……陽月って子と、何かあった?」
平然を装って聞くと、春陽はまた無言で目を伏せた。基本的に素直な春陽がこんなに黙り込むなんて珍しい。
ひいめ……勝手に何をしたんだか。ちゃんと聞いておくんだったな。
そう思った矢先、
「……陽月は……俺と双子だって言うんです」
と、唐突に春陽が切り出した。
「えっ」
「DNAだか何だか、鑑定して、証明したって……。俺に見せてきて……」
春陽の言葉に、陽太は言葉を失った。何も覚えていない春陽に、双子だ、と陽月が告げてしまったことは想定内だが、まさか鑑定までしていたとは……。
「それは……驚いたよね」
春陽に同情するように言葉を紡ぐと、春陽はこくりと頷いた。
「兄弟だとか言うくせに、その………そういうこととか、しちゃって……。って言っても、そういうことするのが俺の仕事なので、変って言うこと自体、変なんですけど……」
春陽は言葉を選びながらも、確実に陽月との関係を語る。自分の弟ながら、手の早さに陽太は呆れた。“待った”を教えずに、甘やかして育てた結果だな、と反省する。
「陽月は……離したくないとか言ってくれて、俺を求めてくれるのに、俺、それに答えられなくて……」
春陽は泣きそうな声で言う。
「どうして?」
「……住む……世界が、違うから……」
春陽の瞳から涙が溢れた。とてもきれいな涙だと思った。
「俺、陽月みたいに、きれいに生きてないから。汚い生き方してるから……」
「……ひいもきれいな生き方なんてしてないけどね」
陽太は思わず口が滑って呟いてしまう。「え?」とはるが小さな声で聞き返してきた。
「いや、何でもないよ。僕たちだってきれいな生き方なんてしてないって事」
取り繕うように言うと、春陽は苦笑した。
「そんな……高橋さんはきれいな人です。俺とは……違います……」
言って、春陽はまたうつ向く。
「そう? 僕だって、君が相手してるような人たちと一緒だよ? 覚えてるでしょう、この前言ったこと」
「えっ……」
「借金を払うから、僕と一緒に暮らそうって。君を金で買いたいって言うのと、何か違う?」
「あ……」
困惑しながらも、春陽は真っ直ぐに陽太を見つめた。陽月と同じ瞳だ、と陽太は思う。けれど、春陽の方がずっと澄んで見えた。
「ねぇ、家においで。買うって言ったって、何をするわけじゃないんだよ? 出掛けたりするのだって今までと何ら変わりないし、陽月にだって会わせてあげる」
陽月の名前を出すと、春陽はゴクリと唾を飲む。ね? と笑顔を向けたけれど、春陽はゆっくりと首を横に振った。
「でも……。それじゃあ陽月の気持ちに答えてあげられないんです。……陽月は俺の欲しい言葉をくれて、安心をくれて、俺を望んでくれる。でも、高橋さんに引き取られたとしたら、きっと陽月は傷つくから……。それに、今だったら仕事を装って陽月に会えるし……」
丁寧に言葉を紡ぐ春陽の瞳から、ポロポロと涙が落ちる。
「俺、卑怯なんです。陽月に会いたいのに、素直に言えなくて。どんな俺だって陽月は許してくれるのに、意地張って拒否して、なのに一緒にいたくて。陽月の気持ちに答えられないのに、好きな気持ちがいっぱいで。俺……今朝も陽月に酷いこと言っちゃった……」
陽太は素直に驚いた。なんて心根のきれいな子なんだろう。自分と血が繋がっているとは思えない程に、春陽は純粋だった。
ともすれば、溢れるのは後悔の涙なんだろうか。
例えばこんな時、陽月だったらどうするんだろう?
陽太は春陽にかけるべき言葉も分からず、ただ泣いている春陽を見つめることしか出来ない。
「陽月がいい……陽月じゃないとだめなのに、おれは……」
突然、春陽ががくりと膝を折る。間一髪のところで、陽太は春陽の体を受け止める。
「はる……っ、」
春陽は顔面蒼白になりながら、肩で息をしていた。番として、陽月の隣に相応しくない自分への、劣等感からの精神的ストレスによるものだと陽太は思った。けれど、その考えは一瞬にして消え失せる。
違う、これはSub dropだ――。
なぜ、どうして、誰に対して。様々な疑問が脳裏を掠める。けれど、今はそれどころではなかった。
助けなければ、何としても……!
陽太は春陽を抱きしめると、その頬に優しく唇を寄せた。「春陽」と名前を読んで、背を擦る。
「怖かったね。もう大丈夫、大丈夫だよ」
ゆっくりと耳元で囁き、戻っておいで、と覚醒を促す。不安に濁る春陽の瞳が陽太を映した。その瞬間を逃さず、陽太は春陽に告げる。
《俺を見ろ》
びく、と春陽が体を震わせる。命令されるまま、春陽は陽太から目を逸らさずにいる。
「そうだよ、上手だね」
「っ、う……ぁ」
「このまま一緒に深呼吸するよ」
陽太が見本を見せると、たどたどしくも春陽が続く。最初はずれていた二人の呼吸が、ゆっくりと重なりあっていく。
「上手だよ、春陽……とっても良い子だ」
まるで言葉で愛撫するように、陽太は春陽を優しく包んだ。淀みを含んだ春陽の瞳が、次第に明るさを取り戻していく。
ああ、良かった。助けてあげられそうだ、と陽太も安堵の息を吐く。
「大丈夫、ひとりにしないからね」
その言葉を春陽が受け取った瞬間、ぶわり、と空気が緩んだのを感じた。
「ひ……な……にぃ」
確かに、春陽はその音を紡いで、とろりと瞳を細めた。
「はる……」
陽太は俄に信じられなかった。記憶を無くしているはずなのに、確かに「ひな兄」と、小さい頃の陽太の愛称を呼んだのだ。
次いで、春陽は自ずから甘えるように陽太の首に腕を回し、頬を擦り寄せてきた。こんなにも心地良い熱を感じたのは、陽太も初めてだった。春陽は自分から陽太のSpaceに堕ちてきたのだ。
「ああ……良い子だね。はる、大好きだよ」
抱きしめ返して、陽太は告げた。えへへ、と穏やかに春陽が笑う声がする。
「疲れただろう。今日はこのままおやすみ」
優しく促すと、春陽はこくりと頷いた。それからしばらくして、すう……と穏やかな呼吸が陽太の耳をくすぐり始める。
陽太は静かに春陽の体を横抱きした。安心しきった顔で、春陽は陽太の腕の中で眠りについていた。
「陽太様」
側で事の成り行きを見ていた陽太の従者が近づいてくる。
辺りに気配を戻すと、道行く人々が物珍しそうな顔で陽太たちを見ていた。
「雅明、車を。このまま春陽を送る」
そう指示して抱き上げた春陽の身体は、まるで羽のように軽かった。
春陽のアパートの場所は知っていた。けれど、訪れたのは初めてだ。
アルミ製の狭い階段を上がり、春陽の部屋へ。
入口も室内も全てが手狭だ。こんな所でよく生活出来ているな、と陽太は思う。物の置き場もないのだろう。脱いだズボンやシャツが、ぽいとベッドに放置されていて、山になりかけていた。
「……少し片付けますか?」
雅明が陽太に問う。
「いや、このままで。起きた時に部屋が変わっていたら、はるも不審がる」
怖い思いは極力させたくない。そうじゃなくとも不安定なのに。
そっとベッドに春陽を下ろす。んん、と居心地が悪そうに身動ぎ、ぱたぱたと手を振って、何か探す素振りをした。
「ここにいるよ」
手を捕まえて軽く握ると、春陽はその陽太の手を自分の頬に引き寄せた。余りにも可愛らしい動作に、陽太は思わず口元を覆った。視界の外では雅明が、スッ、と二人から視線を外す。
……少しだけなら、甘えてもいいのかもしれない。
陽太はベッドに少しのスペースを作ると、春陽の隣にゆっくりと腰掛けた。
「おいで」
優しく声をかけ、自身の膝をぽんぽんと叩く。春陽は誘われるまま陽太の膝を枕にして眠った。小さく丸まった背を撫でる。
こんなにも自分のSpaceに身を委ねてもらえたのは久しぶりだ。陽太も、一時の安らぎを謳歌するように瞳を閉じる。
けれど、すぐに部屋のチャイムが鳴った。呼び出した幼馴染が到着したらしい。雅明が出ていくのと入れ違いに、陽太の幼馴染は姿を見せた。
「遅い」
倫の顔を見るなり、陽太は悪態をつく。
「これでも十分急いだんだけど? 風呂上がりで髪すら乾かしてないよ?」
桃色の前髪を掻きあげながら倫は気怠げに言った。
「ああそう。後でコーヒー牛乳でも買ってやるよ」
「あら、やさし」
くだらない会話をしながらも、倫はベッドに腰掛けている陽太を観察するように見た。いや、正しくは陽太の膝を枕に、小さく丸まって眠る人物に。
「それ、はるちゃん?」
「そう」
「ふーん。意外と可愛く育ったもんだね」
品定めするような口振りだと陽太は思った。同時に、図に乗るな、とも。
「小さい頃から可愛いでしょ、はるは」
「はいはい」
「お前分かってないだろ」
「分かってるよ。良かったね、可愛く育ってくれてさ」
言いながら、倫は春陽の手首に触れる。これでも倫は腕の立つ医者だ。少なくとも、陽太は医療従事者としては一番信頼をおいていた。
「とりあえず安定はしてるね。んで、何があった?」
「……分からない」
陽太は答える。は? と倫は首を傾げた。
「分からない? お前が? 何で?」
倫から見ても、陽太は完璧な存在だった。常に自分を律して、隙を見せない。相手の意図をいち早く理解し、動く。αとして上に立つことも、Domとして支配することも、この男にとっては容易い事だ。圧倒的なカリスマ性と抱擁力――陽太を例えるなら、そうだ。
そんな陽太が、分からない、と口にするなんて。明日は暴風雨かもしれない。
陽太も、あの時春陽が堕ちたのは、陽月に対しての劣等感と、精神的ストレスのせいだと思った。ならば、動き出したのはαとしての自分のはずだ。しかしながら、無意識に動いたのはDomとしての自分だった。本当に、対応を間違わなくて良かったと思う。
「……え、何? 感でやったわけ?」
「そうかも」
冷静にそう返す陽太に、倫は「怖っ!」と叫んだ。
「感でPlayして、Sub spaceまで持っていけんの?? 本当変態だね、お前」
「煩いなぁ」
陽太は珍しく唇を尖らせた。せめて才能だと言って欲しい。でも、変態だと評されたとしても、春陽を助けられたのなら何でも良い。
思い出したように春陽の頭を撫でると、柔らかくて細い髪が陽太の指先に絡む。
無防備に全てを預けてくる春陽を、全身全霊で包み込んであげたい。
大切に守りたい。
幸せにしてあげたい。
「……陽太さぁ、はるちゃんの事、好きなの?」
「好きだよ」
陽太は即答した。けれど、自分が聞いた「好き」と、陽太が答えた「好き」は違うように倫は思う。陽太自身は気付いてないのかもしれないが、幼馴染の倫でも、こんなに誰かに心酔した陽太を見るのは初めてだった。
春陽は陽月の本物だ。魂の番、とも言えるだろう。
けれど、同時に陽太のSubでもあると思う。その証拠に、陽太は完全に自分の内側へ春陽を入れている。
……はるちゃん、大変そう。
こんなに独占欲が強い二人に挟まれて、春陽が苦労するのは目に見えた。と思っても口にはせず、何も知らずに穏やかな寝息を立てる春陽に、倫は思いを馳せた。
※※※※
陽太さぁ、はるちゃんの事、好きなの?――そう聞いてきた倫の姿が脳裏に浮かぶ。
あの後、春陽の容態が落ち着いてるのを確認して帰宅した。
本当なら連れて帰って来たかった。けれど、春陽がまだ陽太の誘いを受け入れていない以上、勝手は許されない。
春陽の自由を奪いたい訳ではない。ただ、安心して暮らして欲しいのだ。自分と、陽月のそばで。
目を閉じると思い出される、三人が一緒に暮らしていた頃の記憶。
陽太は瀬野家の直系だった。一人娘だった母と、婿養子の父の間に陽太は生まれた。母は自分を産んでから体調を崩す事が多くなって、陽太が三歳の時に亡くなった。
祖父は厳しい人だったけれど、陽太には優しかった。唯一、自分と血の繋がった孫だったからだろう。現に、祖父は陽月と春陽には冷たかった。
二人の母は、陽太の育ての母でもあった。笑顔が優しい、穏やかな人だった。実の母が亡くなってから、ずっと近くで陽太の面倒を見てくれていた。そんな人が義理にでも母になったのだから、子供心に嬉しかった。
陽月と春陽も、自分に懐いてくれていた。「ひな兄」と呼んで、陽太の後ろをついてくる事も、甘えて来ることも多かった。二人が喧嘩した時、陽太はいつも間に挟まれていた。
「ねえひな兄、おれ、わるくないよね!?」
「ひな兄はおれのみかただもん! ねえ?」
「うん。二人とも悪くないよ。ちょっとだけ、負けず嫌いが出ちゃっただけなんだよね? どっちも悪くないから、同時に謝ろうか」
「「え―っ」」
「僕は仲良しな二人が好きだよ。喧嘩したままは悲しいなぁ」
陽太が言うと、陽月と春陽はお互いをちらりと見やった。二人とも、陽太を悲しませたくはないのだ。
「はい。じゃあ一緒に。せーの」
「「ごめんなさい」」
素直に言えた二人の頭を陽太は撫でる。良い子だね二人とも、と抱きしめる。
何でもない日常が幸せだった。あの日までは……。
事件が起こったのは、二人が初めてバース性の検査をした時だった。
結果の紙を幼稚園からもらって帰った二人は、陽太にそれを見せてきた。
幼い二人に理解させるには、バース性はまだ難しいものだった。それでも分かりやすいように、陽太は二人に説明したつもりだ。
「おれだけΩなの? 仲間はずれ?」
春陽はしょんぼりと項垂れた。陽太はそんな春陽を少し可哀想に思った。Ωの地位が低い事を、陽太はよく知っていたからだ。
「ひいはαだから、はるより強いんだよ。だから、はるを守ってあげようね」
「分かった!」
「はるは赤ちゃんが産めるんだよ。だから、はるの好きな人の子供を産んであげてね」
「すきな人?」
「うん。はるが大きくなったら分かるよ。はるを守ってくれる大切な人」
それまでは、陽月と二人で春陽を守ればいいと思った。けれど、陽月は違った。
「はるが好きなのはおれだよね?」
「? うん、ひいのこと、好きだよ」
「じゃあ、おれの赤ちゃん産んでくれるんだよね」
「え?」
「だって、好きでしょ?」
「うん」
「じゃあ、はるはおれのね!」
「うん分かった。おれはひいのね」
指切りげんまん、と二人は陽太の前で約束をした。正直驚いたけれど、そんな二人が、可愛くて微笑ましかった。
陽月と春陽は瓜二つの顔をしていた。恐らく一卵性の双子なのだろう。だとすれば、バース性が異なるのは可怪しな話だ。けれど、その可能性はゼロではない。生命の誕生はいつだって神秘に満ちている。
或いは本当に、結ばれるために異なる性で生まれてきたのかもしれない。
本当でも、今だけの約束でも、陽太にはどうでも良かった。二人が幸せそうなら、それで良かったのだ。
そんな二人を引き裂いたのは祖父だった。元々、二人の事を毛嫌いしていたのだから、春陽がΩがと知って黙っている訳がなかった。
春陽だけではなく、母にも罵詈雑言を叩きつけ、祖父はとにかく春陽を嫌った。その上、母と春陽を追い出したのだ。
母と陽月と春陽の三人で出掛けたあの日、帰って来たのは陽月だけだった。
「ひな兄、どうしよう! 二人がいなくなっちゃった!」
陽月は陽太に泣きながらそう言った。理由を聞けば、確かに三人でいたのに、車中でのうたた寝から目覚めたら、二人がいなかったというのだ。
「どういうことですか?」
陽太は三人を連れ出した運転手に詰め寄った。けれど彼は「すみません」としか言わない。
「……お祖父様に、何を言われた?」
陽太の声に、運転手はビクリと肩を震わせた。圧を乗せてしまっていたのは分かっていた。けれど、さすがに陽太も許せるものではなかった。
祖父に抗議に行くと、やはり祖父は春陽の事を罵った。その上で、必要ないと言ったのだ。
「お祖父様が二人を嫌っているのは知っています。なら、何故春陽だけを追い出したんですか!? 追い出すなら、二人一緒でもよかったはずでしょう?」
「なぜ? 決まっている。陽月はαだからだ。まだ使い道があるだろう」
「使い道、って……」
「それに、陽太」
――お前も一人では寂しいだろう。
わんわん泣きじゃくる陽月を必死になだめた。
春陽、春陽、と叫ぶ陽月を見るのは辛かった。あの時、二人が交わしていた幼い約束は、陽月の中では『本物』だったんだと理解した。
「大丈夫、大丈夫だよ。陽月」
「一緒にいるよ」
「ひとりにしないよ」
何度も何度も繰り返した。番を失い、堕ちていきそうな陽月を、必死に繋ぎ止めて、救いあげた。小さな心が、これ以上傷付かないように。ゆっくり、ゆっくりケアをした。
「ひなにい、ひなにい」
「うん、ここにいるよ。良い子だね、陽月」
陽月が完全に落ち着くまでに、一年かかった。けれど、それからの陽月の成長は目覚ましかった。成績も良くスポーツも万能で、同じαの中でも、頭一つ抜けていた。
たまに、無理をしていないだろうかと心配になった。
「大丈夫だよ」
陽月はそう笑っていた。
「ひな兄」
「ん?」
「俺、春陽を探す」
そう言ったのは、陽月が小学校を卒業する頃だった。あと数年で、大体のΩは初めての発情期を迎えるようになる。
「それまでには、絶対に取り戻すから」
それは、春陽を諦めようとしない陽月の、確かな決意だった。
かくん、と頭が垂れて、うたた寝していたんだと気付いた。
懐かしい夢を見た気がする。
そういえば、陽月が堕ちそうになっていたあの時も、陽太は陽月を半強制的に自分のspaceに入れていた気がする。
それはもちろん、陽月を守る為だったし、ケアする為だった。
「……いや、違うな……」
本当は、陽月に対してどこかにずっと後ろめたさがあった。
自分が一人では寂しいからと、祖父は陽月を手元に残すと決めた。
二人が離れる原因を作ったのは自分かもしれない。自分が二人を可愛がっていなければ、もしかしたら離されることはなかったのかもしれない。
ただの憶測。けれど確かに頭の片隅に引っかかっている。
自分が、何とかしなければ。
二人のために。二人がまた、一緒にいられるために……。
陽太さぁ、はるちゃんの事、好きなの?
まさか。これはただの二人への情だ。
分かってる。春陽は陽月のものだ。
自分のものじゃない。
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