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第5話
〈第五話〉
目が覚めたらアパートのベッドで寝ていた。いつ帰って来たのだろう……。上手く思い出せない。
昨日は確かに高橋と食事をしたはずだった。終始自分を心配してくれた高橋の顔が脳裏に浮かぶ。
思い返せば、高橋はいつもシュンの事を一番に考えてもくれていた。どんなものが好きか、どんな場所が落ち着くか、どうやったら気兼ねなく自分と付き合えるか。
高橋は不思議な人だった。シュンとして会っているのに、彼の前に立つと全て暴かれる。隠しているはずの『春陽』がちらりと顔を覗かせるのだ。
春陽は、弱い。精神的にも肉体的にも。だから、仕舞っておかなければならないのに。
――借金を払うから、僕と一緒に暮らそう。君を金で買いたいって言うのと、何か違う? 陽月にだって会わせてあげる――
恐ろしい交換条件だと思った。αはΩを支配する。自分のものだと主張して、比護したがる。他人に触れされるなんて以ての他だ。それが通説とされている。
なのに高橋はそれを許すと言っていた。自分の比護下から出すと言うのだ。
……分からない。それが彼の愛なのか、それとも……。
「値する価値が……ないのかな」
大切だと言いながら、本当はΩとしての価値さえないのかもしれない。
春陽は、弱い……社会的能力も、財も、自尊心も、何も持っていない。それなのにわがままで、素直じゃなくて、愛しているとも、愛して欲しいとも言えない。
こんな自分を受け入れてくれるのなんて、きっと、陽月以外に存在しない。
頭がぼーっとする。
補習の内容なんて、右から左へ抜けていく。寝不足のせいなのか、気持ちが落ち着かないせいなのか。
あの日以来、春陽の中で何かがおかしくなっていった。
シュンはいつも通り、愛想よく仕事が出来る。他人とする行為に嫌気がさすのはいつものことだけど、仕事として割り切れた。
なのに春陽に戻ると、それを罪の意識にしてしまう。陽月に対しての罪悪感が、重たい鉛のように腹の底に溜まっていく。
陽月に会いたい、と思いは募る。反面、会いたくない思いも。
同じように求められたら、今度こそ断れない。眠る度に夢を見て、夢から覚めれば泣いている。それだけ陽月を求めてる。都合の良い自分が嫌だった。
何より、シュンとの――自分自身との境界線が、濃くはっきりとなる一方で、陽月との境界線は揺らいでいく。それが何よりも怖かった。
シュンには休みなどない。店長から電話が入って身仕度をする。
今日はまた、松前のおじさま。薄いピンクのワンピースを着る。
「髪は……どうしようかな?」
上げた方が顔が明るくなって、腫れた目が目立たないかも……。プライベートで何かあっても、それを仕事にまで持ち込むのはよくない。なんていう、妙なポリシー。いや、ただ単に、自分の私生活まで他人に踏み込まれたくないせいだ。
そうやって、内と外の自分が分離してく事に、春陽は気付くことも出来ない。
支度が出来て携帯電話を手に取ると、まるで狙ったかのように着信が入った。
ディスプレイの文字を見つめる。陽月からだった。
嬉しい、と素直に思う。けれど画面の奥にピンク色の服の生地が映った。直後――かちっと、春陽の中で回線が切り替わる。今から仕事でしょう、とシュンが言うのだ。
出る……? 出ない……? 声を聞くだけなら、いい?
震える指先で、受話器を取る。
「……もしもし」
『春陽、俺だよ。会いたい』
単刀直入な誘いに、心臓が跳ねる。
「今日は……だめ」
『どうして?』
「仕事なんだ。だから……」
『待ってるよ、終わってからでもいい』
……やめて、心臓がキリキリと音をたてるから。
「……嫌だ、疲れる」
『遅くなってもいい。前に泊まったホテルで待ってるから』
「い、行かないったら……。しつこいよ」
お願いだから、求めないで欲しい……。
『話があるんだ。大事な話。だから……』
「うるさいなぁっ、俺、陽月と会ってるほど暇じゃない!」
『それでも、待ってるから』
電話を切ると共に、大粒の涙が落ちた。
陽月に否定することが、苦しくて、苦しくて……。
それでも、シュンは立ち上がる。松前に会って、仕事するために。
ちゃんと仕事して、自分で借金を返して、それからじゃないと陽月と向き合えない。
散々考えて、自分が出した答え。
合ってるのか、間違ってるのかも判らない。でも、それ以外、何も答えは見つからないから。
松前は、相変わらず汚い男の顔でシュンを見る。
「久しぶりだねぇ、シュンちゃん」
「なかなか時間が空かなくて……。すみません」
「いいんだよ。今夜は楽しい時間を過ごそうね」
下心見え見えの手がシュンの肩に回る。嫌だな、と思ってしまった。
ディナーの後にくる、慣れた行為。
松前は、やはり鼻の下を伸ばしながら、シュンの顔に触れる。
「シュンちゃんは本当に可愛いねぇ。本当に僕だけのものにしたいよ」
シュンは愛想笑いを返す。
お前のものにだけはなりたくない。
唇が寄ってきて、他人のニオイが鼻をつく。
ねっとりと絡みつく、気持ち悪い舌……。
胸をまさぐる、形の悪い指。
ハァハァ、という、興奮した荒い息。
「――っ、嫌だっ!」
こともあろうに、シュンは松前の身体を押し退けてしまった。松前がシュンを睨む。
「どうしたシュンちゃん? いい子だから、おいで」
後退りしながら、首を横に振る。心臓がばくばくと煩い。
「早く。セックスさせてくれよ。……君の仕事だろう?」
嘲笑うように松前は言う。
「……きません」
「はぁ?」
「出来ません! もう出来ません! ごめんなさいっ!」
テーブルの上に置いていたバッグを掴むと、松前の顔も見ずに走りだした。
松前の罵声が飛ぶ。それをホテルのドアで遮った。
とぼとぼと、行くあても見つからずに街中を彷徨う。途中、肩がぶつかった人に文句を言われた。ちゃんと、頭を下げれたと思う。自分の行動がわからなくなる程に、春陽は混乱していた。
仕事だったのに……何てことをしてしまったのだろう。きっと、松前は店長に文句言うに違いない。そうしたら、怒られる。首かもしれない。
稼ぎのいい仕事だったのに。
これからどうなるんたろう。
何処へ行けばいいんだろう。
陽月。
……陽月……。
『待ってるから』
春陽は息を切らして走る。時間は既に八時を回っていた。
まだ、待っててくれてるだろうか……? 淡い期待を胸に、ホテルの前でキョロキョロと辺りを見回したが、陽月の姿は見えなかった。
当たり前だ。仕事だと言った。会えないと言ったのだから。何時間も待っててくれる事なんてあるはずない。
「……っく、うぅ……」
ぼろぼろと涙が溢れる。何事? と、道行く人たちが不審そうに見ていた。洪水のようにとめどなく流れて、止める術も分からない。
くら……と、体から力が抜けそうになる。
既で、誰かの腕の中に抱き込まれた。
「春陽」
顔を上げると、大好きな人がいる。
「大丈夫か?」
「……陽月ぃっ!」
まだ人通りも多いのに、春陽は躊躇なく陽月に飛び付いた。
――春陽はSubかもしれない。
陽太がそう言っていた。会った時にdropしてしまったと。
陽太は相当手慣れたDomだ。それは陽月もよく理解している。その陽太がdrop……つまり、しくじったと言ったのだ。
原因が分からない、と陽太は言っていた。自分たちの予測を越えた何かを、春陽は抱えているのかもしれない。
それでも、陽月は運命だと信じている。
部屋に入ると、どちらからともなく抱きしめて、キスをした。
「春陽、会いたかった」
陽月はただ素直に本心を告げる。離れていた時間なんて、ほんの一週間くらいなのに……。
春陽は力なく微笑んだ。陽月がそう言ってくれることが、申し訳なくも、嬉しい。
「今日はどうしても、春陽に会いたかったんだ」
なぜ? と問いかけようとした。けれど、別の場所から答えを返すように、突然花火の上がる音が聞こえた。
「春陽に見せたかったんだ」
ホテルの隣にある遊園地のイベント。きれいだと人気があった。少しでも、春陽が喜んでくれたら、とそう思って陽月は誘った。
すごい、と春陽は目を輝かせる。
最上階から眺める花火は、遮るものもなく目の前に広がり、打ち上がっては吸い込まれるように暗い空へ溶ける。
なんて儚いんだろう……。
もの悲しくなって、陽月を見る。
きれいな横顔。汚れを知らないような、真っすぐで力強い瞳。
――このひとと、ずっと一緒にいたい。
初めて春陽から陽月に寄り添った。躊躇いもなく、自然に指を絡ませる。
花火の光と音だけが、二人を包んだ。
「……春陽」
愛しそうに名前を呼んでくれる。
「家へ帰ろう。俺と一緒に暮らそう」
「陽月……」
花火が散る。輝きが消えた暗闇の中で、キスを交わした。
こんなの駄目だ――そう頭の中で警笛が鳴っても、身体が、心が、命が、陽月の魔法にかかりたいと願う。
愛してるの言葉を、信じたいと願う。
「ダメだよ……。俺、まだ借金が……」
「春陽、お前のすべてを俺が買う。だから一緒にいろ」
一際、心臓が高鳴った。高橋にも同じ事を言われた。
「春陽の借金を払うから」
「でも……んっ……」
口答えする春陽の唇が、優しくも強引に塞がれる。
「もう、誰にも抱かれるな」
陽月はそう言ってくれた。胸がいっぱいになって言葉が出ない。思わず頷きそうになる。けれど、いいのだろうか、そんな関係で……。
「春陽、俺の言う事聞いて? 大丈夫、絶対幸せにするから」
抱き締めてくれる腕は強い。この温もりも、陽月の魔法の一つなのかもしれない。
肌に触れて、キスをして、じゃれ合うように二人ベッドに沈む。
「あ、待って」
「どうした?」
「シャワー浴びてない……」
さっき会った松前の香水や、タバコの臭いが体についているようで嫌だった。それに、他の男の臭いを残したままなんて、陽月に失礼だ。
「いいよ、離したくない」
「でも……んっ……」
「気にならないくらい、体中俺で満たしてやる」
塗り替えるよ、全部。
その陽月の独占欲が心地良かった。陽月の腕に抱かれて、信じられないくらい素直になる。優しく優しく愛されて、Ωとしての本能が花を咲かせる。
「あっ……、ひ、づき……」
「ん?」
体が離れたままイってしまうと、そのまま放り出しされそうで怖かった。手を伸ばして抱きつくと、陽月の腕がしっかりと支えてくれる。腰を浮かせながら快感を得ると、ぽたぽたと愛液がシーツを汚した。
「好きだよ」
囁かれる言葉が、体の奥にゆっくりと染みる。
「陽月ぃ……」
情けないくらいに、涙が止まってくれない。笑顔でいたいのに。陽月の言葉が嬉しいのに。これじゃあ喜んでるようには思えない。春陽だって、伝えたいのに。
「……き……」
「え?」
「すき……」
喉の奥から声を絞り出した。
陽月の手のひらが頬を撫でて、春陽の涙を拭い、キスをくれる。
「ずっと、ずっと一緒にいたい。陽月と、一緒にいたい」
やっと言えた。正直な気持ち。
嬉しい、と陽月が言った。
「ずっと一緒だよ」
自身の性の中に、陽月の雄を受け入れた。全身が震えて、これが『本物』なんだと叫ぶ。最奥を突かれるたび快感に支配され、どくどく、と熱を注がれる。
一晩で何度も抱かれて、眠りに落ちるように春陽は意識を手放した。
※※※※
翌日、春陽の目に一番に目に飛び込んできたのは、陽月の笑顔だった。
「おはよう」とキスをくれる。
昨日の事は夢ではなかったのだ。春陽は嬉しくもあり、少し恥ずかしくもあった。
「このまま一緒に帰ろう」
そう、陽月は言った。けれど、ワンピース姿の春陽は首を横に振る。
「着替えて行くよ。さすがにこれじゃ、ちょっと……」
可愛いのに、と陽月は笑う。
「じゃあ、午後迎えに行く。必要なものだけ用意していて」
家まで送る、と陽月は言ったけれど、春陽の住んでいるボロアパートの前にこんな高級車が停まったら、近所が大騒ぎだ。近くの公園で降ろしてもらい、早足で家に戻る。
部屋の鍵を開けようとすると、中から物音がした。
――泥棒!?
春陽はビクッとしてドアノブから手を離す。
どうしていいか分からずに立ち尽くしていると、春陽の横に誰かが並んだ。驚いて見上げると、見知らぬ顔。誰、と声をかけようとした瞬間、腹に痛みが走る。
「――っぅ……」
頭がクラクラして、バランスを崩して倒れこんだ。
意識が戻ると、見たこともないベッドの上だった。体を起こそうにも、だるくて思うように動かない。
まるで鉛を体に乗せているようだった。それでも何とか上体を起こす。目に映ったのは真っ白なガウン。いつの間にか着替えさせられていた。
一体誰に……?
「目が覚めたかい?」
声のした方に視線を動かし、春陽は目を見開いた。
「松前……さん……」
「気分はどうだい?」
「何で……? 俺……」
「君は私に買われたんだよ。シュン……、いや、春陽と言ったかな?」
松前のゴツゴツした指が、春陽の顎を持ち上げる。
買われた……?
「それって、何? どういう……」
「今日から君は私のペットになるんだよ」
「――っ、離して下さいっ!」
松前の手を力なく振り払い、逃れようと後ずさる。
「逃げられないんだよ。体に力が入らないだろう? 薬が効いているからね」
「く、すり……?」
何の? なんて、怖くてとても聞けなかった。
「もうそろそろ切れるから、新しい薬をあげよう。――おい、アレを持って来い」
松前は人を呼んで、小さな箱を持って来させた。中から取り出したのは注射器。聞かなくても、中に入っている薬が普通じゃないと分かった。
「い、やだ、やめて下さい! お願いだから、家へ帰して……!」
「言っただろう? 君は私が金を出して買ったんだよ。私のものなんだ」
松前が春陽の腕を引く。逃げようとすると、別の男に後ろから捕まえられた。強い力で抑えつけられて、松前が手にする針が近づいてくる。
逃げられない……!
春陽はぎゅっと目を閉じた。チクリとした痛みの後に、痺れるような感覚に襲われる。
――陽月っ!!
心の中で叫んでも、離れていて届くはずなかった。
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