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第6話

〈第六話〉  名前を呼ぼれた気がして、陽月は見ていた資料から視線を上げた。 「――ひい? どうした?」  大人しく読み耽っていた陽月が、勢いよく顔を上げたのを不思議に思ったのか、陽太が声をかける。 「……今、呼ばれたような気がした」 「空耳じゃない?」  ここにいる誰も呼んでないなら、そうかもしれない。  でも、何だろう。胸騒ぎがする……。  少なからず不安を抱えた陽月の乗る車は、春陽がバイトをしていた店の前で停まる。先にこちらに寄ったのは、春陽が立て替えてもらっている借金を返済するためだった。 「ひいは待っていて」  陽太は陽月と加谷を車内に残し、雅明と共に店の中へ入って行く。 「俺も行きたい、って顔ですね」  二人が視界から消えても、まだそこを見続ける陽月に、加谷が声をかける。 「行きたいよ。春陽に関わることだ」 「除け者にされている気分ですか?」 「……少し」  素直に唇を尖らせて拗ねる陽月を見て、加谷は微笑んだ。資産家の子息なんて、大体プライドが高く傲慢な人物が多いが、加谷の主人である陽月はそれと逆を行くタイプだった。  無論、プライドがない訳ではない。陽月は意外と堅実なタイプだ。知識や経験をしっかりと自分の中に落とし込み、理解して、自分らしく表現する。  だから、興味の向くことはどんどんチャレンジしてほしい。それだけ、陽月が成長すると加谷は分かっているから。ただ…… 「この様な場所は、まだ少し陽月様には早いのですよ」 「…………」 「無粋な場所には連れて行かない。陽太様の愛情です」 「わーかってるっ!」  陽月はお説教が嫌いだ。それに、陽太が自分に甘いのも重々承知している。  陽太は兄であり、母親のようでもあった。いつも優しく温かく包んでくれる。陽太も、母親と死別していることから、母親のいない寂しさがわかる。だから自分にも甘いのだ、と陽月は思っていた。  けれど、陽太がDomであることを知って、その性質を理解してからは見方が変わった。恐らく、陽太は比護したいのだ。自分のことも、それから、春陽のことも。  残念ながら、陽月は陽太の庇護を必要とする歳ではなくなってしまったのだけれど。  ……と、そんなことを考えるくらい、陽月には陽太を待つ時間があった。 「……加谷」 「はい」 「遅すぎないか?」 「ええ……左様ですね」  陽太が店に入ってから、随分と経つ。  春陽を引き取る話はもうついている。陽太はそう言っていた。ならば、本当に金だけ払っておさらばになるはずだ。  陽月は携帯電話を取って、春陽に電話をかける。長い呼び出し音、いくら待っても繋がらない。  春陽に、何かあったんだ……。  直感がそう告げ、陽月の脳内に警報を鳴らす。その時、陽太が戻ってきた。纏う空気と表情が、明らかに険しい。 「……雅明、あの件をすぐに確認して。実行に移せるなら、早急に移してかまわない」 「かしこまりました」  指示された雅明は、車に乗り込むとすぐにパソコンに向かう。 「何かあったのか?」  聞いても陽太は答えてくれない。 「なぁ、陽太っ!」  服の裾を引くと、陽太はやっと陽月を見た。 「……春陽が、松前に買われた」 「松前……」  先程の資料の中にあった名だ。  春陽の常連客。里山商事の社長で、松前はその二代目だ。海外製品の取り扱いで利益を得ている大手。特に薬品関係では他社と郡を抜く。が、裏で麻薬の密売もしている。そこから得る利益は相当なもの――資料にはそう記されていた。 「春陽に連絡がつかない。多分、もう春陽は監禁されてる」  陽太は悔しそうに唇を噛んでいた。  他人に買われた。麻薬。監禁。最悪なワードばかりが陽月の思考に浮かぶ。  『陽月』と呼んだ先程の声は空耳なんかじゃない。春陽の声だったんだ、と唐突に理解した。  どうしてあの瞬間、動かなかったのだろう。もし動いていたら――……けれど、動いたところで自分に何か出来たのだろうか……?  陽月、と陽太が名前を呼ぶ。 「春陽を助けに行くよ」  陽月を見つめる陽太の瞳には、確かに怒りがあった。  陽月は力強く頷く。  冷静さを欠くな。  足手まといになるな。 「大丈夫、きっと大丈夫だよ」  陽太の声が静かに陽月に響いた。     ※※※※  意識が朦朧とする。体が言うことを聞かない……。 「春陽……ほら」  春陽は目の前に出されたものを、焦点の合わない瞳で見た。 「何してる。早く食わえろ」  頭を掴まれたかと思うと、口の中にペニスが押し込まれる。  嫌だ、とそう思ったけれど、抵抗する力もない。春陽は命令されるまま、男のモノをしゃぶった。 「いいか? お前は俺のペットだ。主人に逆らうんじゃない」 「うっ……、ぐ……」  嗚咽を漏らしながら音を立てて吸い付くと、男のペニスは悦んだ。とにかく、早く解放されたくて、夢中で行為を続ける。  気がつくと、辺りが何だか騒がしい。  陽月の声が聞こえた気がして、ビクリと体が震える。  口からペニスが引き抜かれると、そのまま春陽の体が床に落ちる。落ちる、というより、叩きつけられる感覚。  うつろに瞳を開けると、陽月の姿が見えた。  春陽、と自分を呼ぶ切羽詰まった声。それから、鞭打つような威圧感。  あぁ……、どうしよう……。  陽月が来てくれて嬉しいのに、同時に怖くなった。  今の春陽の姿は、どう見ても尋常じゃない。さっきまで、男のモノをしゃぶっていた訳だし、松前に買われて、注射まで打たれた。きっと、今まで以上に汚いに違いない。  きっと……嫌われる。  そう思い、春陽は頑なに瞳を閉じた。こぼれ落ちる涙は、どこまでも冷たく感じられ、掬われることもなく、床に落ちる。  松前の声がうるさい。  それに混じって聞こえる声は誰のだろう……?  聞き覚えはあるのに……思い出せない。  あぁ……頭痛がひどい。  さっき打たれた薬が効いてきたのか。  それとも、その後に飲まされた薬か。  体が……、ウズウズする…………。意識が…………―――― ※※※※  部屋に飛び込んだ時、すでに春陽は抜け殻同然だった。意識を持たない表情で、健気に松前に奉仕する春陽の姿が痛々しかった。 「松前、俺の春陽に何をした」  先に怒りを露わにしたのは陽月の方だった。ビリビリと空気が唸り、威圧された松前が動きを止める。当たり前だ。自分の番に手を出されて黙っているαなんていない。  陽月の圧は相当なものだった。隣にいる加谷も動きを止める程に。上流階級に従事る執事ならば、簡単に威圧されぬよう訓練を受けているはずだ。それでも、静止を余儀なくされる。  素晴らしいな、と陽太は心中で陽月を称賛した。この状況で、陽月は冷静さを欠いていない。放つ圧は確かに強いが、その殆どが松前に集中されている。無意識かもしれないけれど、怒りの矛先をコントロールしているのだ。 《手を離せ》  陽月は確かにコマンドを放った。松前が手を震わせながら、春陽を放り出し、逃げ出そうと後ずさる。 「春陽っ!」  陽月が駆け出す。床に投げ出された春陽の体をしっかりと抱きしめた。顔に掛かる髪を払って、意識を確かめている。 「春陽! 春陽!」  何度呼びかけても、春陽は答えない。血色の失われた蒼白い顔。 「ひい、加谷と一緒にはるを連れて行って」  陽太は陽月に目線を合わせると、静かに指示を出した。 「ひな……」 「なるべく早く屋敷から出て。家で倫が待機しているはずだから、はるを診てもらって。いいね?」 「陽太は?」 「後で戻るから。頼んだよ」  無言で陽月が頷き、春陽を抱き上げて走り出す。  遠くなる足音を聞きながら、陽太は松前に向き直った。  下半身を露出したまま、松前は青筋を立てて陽太を見ている。 「情けない姿だね、松前さん」 「貴様ら……よくも、よくも俺を侮辱したな!! 許さんぞ!!」  陽月の圧から抜け出たのか、松前は陽太を指さして怒鳴る。虫けらの鳴声だと、どこか遠くで陽太は思う。 「先に盾突いてきたのはそっちだろう?」  ピリッ、と空気が震える。松前は少しだけ冷静に陽太を見やった。 「お、まえ……まさか……瀬野の……」  陽太は、にこり、と松前に笑みを返した。それが全ての答えだった。 「さて、どうしようか。松前さんはどうして欲しい?」 「は……はは、無駄だぞ。俺はダイナミクスを持っていないからな……。お前の命令は通用しないぞ」 「本当にそう思う? 俺に怯えているのに?」  一歩、陽太は松前に寄った。ひっ……、と松前が息を飲み、ずるずると尻を引いて陽太と距離を取ろうとする。 《俺から逃げるな!》  強いGlareと共に、陽太はコマンドを放った。松前の体がビクリと強張り、次いでカタカタと震え出した。 《これから君はSubだ。いいね?》  あ、あ、と松前の顔が恐怖に歪み、呼吸が浅くなる。返事は? と聞かれ、はい、と素直に口を動かす。 「躾けてあげるよ。……ニ度と社会に出られないように」  酷く、美しい冷笑を湛え、陽太は松前に手を伸ばした。   ※※※※ 「……うっわ……。ひでぇなぁ」  春陽の姿を見るなり、倫は言った。 「あー……とりあえず風呂だ。清潔が第一。ひいちゃん、連れて行ける?」 「あ、はい……」  いつになくか細い声だ、と倫は思う。同時に、強い子だなとも。こんなにも自分の番を傷付けられて、精神状態を保っていられるのも珍しい。まぁ、ギリギリだろうけど。 「よし。じゃあもうひと頑張り。はるちゃんが元気になったら、みんなで美味しいお茶飲もうね」  にこ、と屈託のない笑顔を陽月に向ける。少しだけ、陽月の表情が和らいた。  部屋へ急ぐ背中を見送って、倫は白衣の裾を翻す。自分の仕事を遂行するために。  倫に言われるまま、陽月は春陽を抱いて風呂へ直行する。シャワーの湯を出して、足元からゆっくりと春陽に掛けた。  陽月は服を着たままだったけれど、脱ぐ、という考えは出てこなかった。  何を差し置いても春陽が先だ。そう思うから、服が濡れるのも厭わない。  半分ほど春陽の体を洗い流したところで、ビクッと春陽が体を震わせた。長い睫毛が分かれて、ゆっくりと瞳が見える。 「……春陽?」  名前を呼ぶと、春陽の小さな唇が陽月の名前を呼ぶように動く。音にはなっていない。 「大丈夫か?」  聞くと、春陽は陽月の背中に力なく腕を回し、抱きついてきた。 「春……、っん……」  答えも返さず、春陽は突然、陽月にキスをしてきた。春陽からなんて初めてで、陽月は驚いてしまう。 「……ごめんなさい……」  離れた唇が言う。 「ごめんなさい……。おれ……」  今にも泣き出しそうな声。陽月は返事の代わりに春陽の体をギュッと抱きしめる。 「………………たい……」  春陽の声が耳元で聞こえる。陽月は一瞬、その言葉を疑った。やりたい、と春陽は言ったのだ。  聞き直そうと春陽を見ると、また唇が重なる。春陽の方から舌を絡めてきて、間違いなんかじゃないことを証明する。布越しに、春陽の勃起したペニスが当たっていた。 「……ごめんなさい……。でも、俺……、苦しい…………」 「春陽……」  意を決して、春陽の体を抱き上げるとベッドへ連れて行った。服を脱ぎ捨てて、春陽に被さる。 「ひづきぃ……」  春陽はやっぱり泣きながら、陽月に抱きついてキスをする。  痺れるくらい貪欲に、お互いの唇を、舌を貪る。それだけでも、春陽は相当感じるらしく、奮わせるペニスからは先走りの蜜が、アナルから愛液が、トロトロと溢れる。  そういえば、薬を打たれているんだった。苦しい、と陽月を求めるのはそのせいなのかもしれない。 「春陽……」  やっぱりあの時、無理にでも連れ帰っていたら、と後悔が陽月の頭を巡る。  愛しい体に唇を寄せると、春陽はビクンと体を揺らした。立ち上がった乳首を舐めると、甘い声が漏れる。  感度のいい、素直な春陽の体。  誘われるまま、春陽の中へ入った。キュウ……と締め付けてくる。  春陽と繋がれて嬉しいはずなのに、涙が出そうになる。辛くて、切ない……。 「陽月っ……」  春陽も泣いていた。  そう、苦しいのは春陽なのだ。  この苦しさは春陽がこの瞬間に抱えているもの。番だから、陽月にも伝わってきているんだろうか……。 「ごめんなさいっ……」  何度も何度も、春陽は謝りながら自ら腰を振って快楽を求めてくる。  何て返してやればいい? どうしたら泣き止んでくれる? どうしたら、……春陽は安心してくれる……?  絶頂を迎えて、力なくベッドに沈む春陽の指に、陽月は自分の指を絡めた。  ――陽月って、不思議。  魔法使いみたい。  こんな俺でもいいんだって、思わせてくれるから――  ベッドの中で春陽は言った。  幸せそうに、笑って言ってくれた。  陽月は魔法使いでも何でもない。でも、春陽がそう言うのなら。 「もう、大丈夫」  真っ直ぐに、春陽の瞳を見つめて告げる。  笑って、キスをして。魔法をかけよう。 「どんな春陽でも、俺の大切な春陽だ」  春陽は穏やかに微笑むと、頷いて瞳を閉じた。

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