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第7話

〈第七話〉  朦朧とする意識の底に、陽月の声が鮮明に届く。  ――どんな春陽でも、俺の大切な春陽だ  その陽月の独占欲が、心地良く春陽の体を支配する。ずっと求めていたような、手放したものを見つけたような、そんな喜びが春陽を満たす。  春陽が目を開けると、また見たこともない場所だった。真っ白な天井には繊細な模様が施してある。窓から柔らかな光が差し込んでいて、先程までいた場所とは違うと理解出来た。嫌な雰囲気ではなかったから。  ここ……どこだろう……?  痛む頭をフル回転させて記憶を探る。  そうだ。松前に買われて、薬を打たれたんだ……。  そっと腕に触れると、蘇る感触にジワリとそこが痛む。見るのも怖くて、震える手を降ろした。  ならば、ここは松前のいる場所なのだろう。脳裏に「逃げ出す」という言葉が浮かぶ。今なら誰もいない。逃げるなら、今しかない!  ベッドから降りようとすると、支える足に力が入らなくて、そのまま床に落ちた。ビクリと体が硬直する。  床に叩きつけられるのは……怖い。  頭痛が酷くなる。ジワリと目尻に涙が浮かんだ。  逃げなきゃ、逃げなきゃいけない。でないと…………。  ガチャリ、と扉が開く音がした。心臓が、一瞬動きを止めたような気がした。恐る恐る顔を上げると、白衣を着た男が春陽を見ていた。明るい桃色の髪が不自然なくらい春陽の瞳に眩しく映った。 「おぅ、目覚めた?」  軽快に話しかけてくる。誰だろう。松前の仲間? 「気分はどう?」  ――気分はどうだ?  男は普通に聞いてきただけだったのかもしれない。けれど春陽には、その言葉が松前の言葉と被って聞こえた。伸ばされた手から、逃げるように体が縮こまる。 「い……やだ……やめて……」  精一杯に声を絞り出す。男は、ふーん……と考えるような仕草をした。  男の手が春陽を捕まえようと伸びてくる。逃げることも叶わず、春陽は男に抱き上げられた。 「……随分と軽いね」  近くで囁かれて、体がビクンと反応する。怖い、とかじゃない。ふっ、と耳にかかった空気に反応してしまったんだ、と春陽は理解した。まだ薬が効いてるんだと思うと恐ろしくなる。  思考も感情も何もかも奪われてしまうのは怖い。自分がわからなくなる。  けれど、男は春陽に何をするわけでもなく優しくベッドへ降ろすと、白衣のポケットから携帯を取り出した。 「……もしもーし。はるちゃん目が覚めたよ」  それだけ言うと、通話を切る。春陽はぼーっとしてそれを見ていた。  悪い人……ではないのかも……。  ん? と、男は春陽を見た。じいと見つめ過ぎたのかもしれない。男は身を屈めて、春陽の頬に触れた。 「駄目だよ。そんな誘うように見つめちゃ」  その気になっちゃうでしょ? と男は春陽の頬に唇を寄せた。身動き出来るほどの元気がなく、春陽はされるまま、それを受け入れる。  チュッと軽いリップ音。それと同時に、ノックもなく扉が開く。 「春っ……」  呼ぶ声は途中で途切れた。男の唇から解放された春陽は、ぼーっと音のした方を見つめた。瞳に映した人物が信じられなくて、春陽は目を見張った。 「……陽月……」  声を絞り出した。届いたかどうかわからない。  陽月はつかつかとやってきて、春陽を後ろに庇うように、二人の間に割り立った。 「……手を出していいとは言ってない」  陽月が男に言う。自分を守るように向けられた背は優しいのに、告げた声は低かった。怒っているのだ、と春陽は思う。 「ごめんごめん。可愛いものには、ついね」  男はヘラッと笑って言った。軽すぎるノリに、悪気があったわけじゃない事は春陽にも分かった。 「……後で陽太に説教してもらうからな」  陽月は男にそう言うと、春陽の方に向き直る。 「目が覚めて良かった」  優しい手が、春陽の体温を確かめるように頬に触れた。 「あの……ごめんなさい……」  陽月に対して、一番に口をついたのはそれだった。 「謝ることなんてないよ。大丈夫か?」 「大丈夫なわけないでしょ。久しぶりに目が覚めて、さっきだって体に力入らなくて、ベッドから転げ落ちてたのに」  陽月の質問に答えたのは、春陽ではなく倫だった。久しぶり……? と春陽は聞く。 「春陽はここに来てから……あの日から四日も眠ったままだったんだよ?」  陽月の言葉に驚いた。四日間も……? 「ま、薬の副作用と過労のせいだね。もう少し休めば良くなるから。熱もないみたいだしね」  ちょんちょん、と自分の頬を突いて倫は言った。まさか……あれで体温を確かめたと言うのだろうか。どういう確かめ方? と春陽は首を傾げたくなった。 「とりあえずひいちゃんに任せようかな。また後で来るからね」  そう言って、ひらひらと手を振りながら倫は部屋から出ていく。  ドアが閉まると、陽月はふうっ、と息を吐く。 「ったく、見境ない奴」 「あ、あの人誰?」  春陽は小さな声で陽月に聞く。もしかしたら、陽月同様、また知り合いだったりすると悪い。 「倫さんっていうんだ。陽太……兄さんの幼馴染で、家のお抱えの医者」  ああ見えて、腕は確かなんだ。と陽月は言う。 「…………ここは、陽月のお家……?」 「そう。今日からはここが春陽の家だ」  陽月はにこりと笑う。  ということは、やはり陽月が助けてくれたのだろう。  俺、陽月に買われたのかな……?   心が不安にざわめく。陽月に迷惑をかけて……貸しを作ってしまった。 「朝ご飯用意させるよ。俺は学校に用があるから、朝ご飯食べたらまた休んでいて。昼過ぎには帰るから」  春陽の唇にキスをして、陽月は部屋を出て行った。 ※※※※※  ベッドの上にテーブルを出して、朝食が並べられる。  朝という言葉を疑うような豪華さ。春陽にとっては夜のフルコースに思える。せっかくのご馳走なのに胃の方が拒否をして、ほんの少し口をつけて残した。  ああ、もったいない〜……と、フォークを握りしめながら悶え、元気になったら絶対食べてやる! と下げられていく料理を見ながら思った。  食事をしたら少し元気が出てきた。春陽はベッドを抜けて、厚いカーテンの掛かる出窓へ向かう。 「う、わぁ……!」  眼下に広がる大きな庭園。これをこの家では庭というんだろう。離れた所に見える門。その先には小さく街が見える。 「……あ」  よく知っている建物を見つけた。春陽の通う学校だ。 「えっと……あそこが学校なら……ここ、丘の上のお屋敷だ」  街の遠くの丘に見える、大きくて白いお屋敷。どんな人が住んでいるんだろう、とずっと思っていた。  今、その場所に居ることに実感がない。これからずっと、ここで暮らすことも。  自分には不似合いすぎる大きなベッド。細かな洋風模様の家具。それがお洒落に配置された部屋。春陽の人生で買うことがないような、高級感のあるものばかりが目につく。落ち着いて考え、改めて“買われた”現実を突きつけられたような気がした。  自分はこれからどうしたらいいんだろう。この家で、出来ることがあるのだろうか。頭を垂れて考える。  と、コンコンと軽いノックの音。恐る恐る扉を開けた。そこに立っていたのは、最初に春陽を買いたいと申し出た人物。 「もう出歩いても平気?」  優しい笑顔の、素敵な常連客。 「高橋さん……?」  どうして。春陽は身動きも忘れて立ち尽くす。 「……“高橋”っていうのは、偽名なんだ。僕の知り合いから借りた」 「えっ……」 「黙っててごめんね。僕の本当の名前は、瀬野陽太」  せの……? と、春陽の唇が、自身の苗字と同じ音を奏でた。陽月とも、同じ苗字。つまり…… 「うん。陽月と春陽のお兄さんだよ」  言葉が出なかった。  騙されていて悲しいとか、悔しいとか、そんな気持ちではない。  だからと言って、兄弟で良かったとか、嬉しい、なんて気持ちもない。  驚きのあまり、本当に頭が空っぽになってしまった。 「……怒った?」  小首を傾げて、陽太は困ったように春陽に聞く。 「いえ……すみません。そんなんじゃなくて……。ただ、本当にびっくりして……」  辿々しい言葉しか返せない。まだ唖然としたままの春陽に、陽太は視線を合わせる。観察するように優しい瞳に覗き込まれ、ドキリと胸が高鳴った。 「倫が、もう大丈夫って言ってたから、安心したよ」  陽太の手のひらが、優しく春陽の頭を撫でた。 「すみません……俺……」 「謝ることなんてないよ。春陽は何も悪いことしていないんだから」  ね? と陽太は穏やかに笑う。なに一つ怒っている気配のない陽太を前にして、我慢していた涙がこぼれた。 「はる、どうしたの? 泣かなくてもいいんだよ?」 「ごめんなさい……ごめんなさい。俺、陽太さんが家族だって知らなくて、散々迷惑かけて、俺……どう謝っていいか……」 「なら、謝らなくていいから、笑って。僕は笑顔の春陽の方が好きだよ」  陽月が帰ってくるまでの間、陽太は春陽のそばに居てくれた。  見るからにサクフワとしていそうなマカロンやクッキー。濃い卵色のプリンに、香り高い紅茶。テーブルに並べられたお茶菓子に、うわぁぁ、と春陽は目を輝かせる。 「好きなもの食べて良いんだよ。もちろん全部でも」 「全部っ!?」  驚きながらも、きらきらした瞳のまま、春陽は隣に座る陽太を見た。可愛いな、と陽太は微笑む。  少ししてから倫がやってきて、春陽の容態を確認する。 「薬の副作用もだいぶなくなってきてるから。まぁ当分は、何かにつけて恐怖心が残るかもしれないけど」  言いながら、倫は春陽の服の袖を上げる。痩細く白い肌。そこに青みを帯びた注射跡が幾つもついていて、春陽は腕から視線を逸らす。 「……松前の名前を聞いた時から、警戒していたつもりだったんだけどね……。まさかはるを買ってしまうなんて、思ってもみなかった」 「すみません……。多分俺のせいなんです。俺が松前を拒んだから、怒ったんだと思います……」  頭を下げて言葉を紡ぐ。あの時の松前の罵声が、まだ脳内に残っている。  ――ヤらせてくれよ。仕事だろう?  こんな仕事をする自分を、どんな思いで見ていたんだろう……。春陽は陽太の心情を察しようとした。  きっと、心配で、嫌で、しかたなかったんだ。だから“家においで”と言ってくれていたのだと、そう結論付ける。 「あの店は僕の知り合いがやっていてね。春陽が僕の弟だって教えてあったんだ。誰かが春陽を欲しても、断ってもらうように言ってあったんだけど……アイツ」 「松前はそれを押し切ったんだよねー。拒否した静人を殴りつけて、一方的に金だけ置いて出て行ったって。そのあと、陽太にも……「んんっ!」  倫の言葉を、陽太は咳払いで遮った。どことなく冷ややかな……牽制の瞳を倫に向けている。  春陽は二人の話を聞いて、やはり松前に"買われた"のは事実なんだと分かった。 「なら、どうして今ここに俺がいるんですか……?」  不思議に思って聞くと、「松前の持っている会社を、全部買収したからね」と、さらりと陽太はこぼした。 「奴の持っていた会社半分と、春陽を交換したんだ。でも、あれだけじゃ今までのような生活は出来ないし、例え春陽を買い直そうとしても無理だから」  にこやかに笑って、陽太は勝ち誇ったように言う。 「なぁにいい子ちゃんぶってんだか。社会復帰出来ないくらい、再起不能にしたくせに」 「倫?」 「はいはい。黙ってますよ」  ……なんだか怖い会話を聞いた気がする。内心びくびくしながら、春陽は手元の紅茶を啜った。ティーカップに残る紅茶に、自身の顔が映る。  理由はどうであれ、自分なんかの為に、図り知れない莫大な金銭が動いていたなんて……。 「……松前から俺を買ったお金って…………俺が一生働いて、返せる金額じゃないですよね……」  苦笑すら出てこない。出てくるのは重い言葉と、漠然とした不安。  「はる」と、陽太の声が呼んだ。 「お金のことは気にしなくていいんだよ。本当なら、はるにあんな仕事させなくても助けてあげられたんだ。後悔してるのは僕たちだよ。だから、はるはもう何も心配しなくていいんだ。今更かもしれないけど、僕たちを家族だと思ってくれたら、それが一番嬉しい」  諭すように陽太は微笑む。  陽太の声は不思議だ、と春陽は思う。この声に言われると、そうすることが正しいのだと……そんな気になってくる。 「そうそう。はるちゃんは何にも気にせず、ひなとひいちゃんに溺愛されてればいいんだよ」  あっはっはと倫が笑い、頭をわちゃわちゃと撫でられた。  ったくお前は、と、陽太が倫に小言を垂れながら、くしゃくしゃになった春陽の髪を撫でて、直してくれる。  陽太さんの温かい手、好きだなぁ。――そう実感すると、なんだか気恥ずかしくなってきた。  へへ、と小さく照れ笑いを浮かべる春陽に、向かいの席についた倫は、新たな話を切り出す。 「ところではるちゃん。ダイナミクスの検査は受けたことがある?」  え? と春陽は聞き返した。  オメガ性と異なり、ダイナミクス性は生活に直結する程のものではない。発情期があるわけでもないし、仮に持っていたとしても、生活に支障が出るほどのものでもないので、一般的には軽視されている。単に、嗜好の一つと見なされることもあり、検査なんて上流階級のみが行うものだと思っていた。 「はるちゃんが眠ってる間に色々と見させてもらったけど……はるちゃんねえ、Sub持ちだよ」  言われたところで、全く理解が追いつかない。それが何なのだろう。 「何か、いけないことですか?」  聞き返すと、いけないとかじゃないんだけど……と倫は口籠る。 「感情を持っていかれないように気をつけてね、って話だよ」  陽太は優しく説くように言った。 「例えば、Dom相手に感情を許してしまうと、支配下に置かれる可能性がある。自分でも気付かないうちに、Domの意のままにコントロールされる。それはとても危ないことなんだよ」 「そうなんですか?」  きょとんとして聞き返す春陽に、陽太は静かに言葉を紡いだ。――嫌い、と。  途端、春陽の世界が動きを止めた。音も、光も、空気さえも消え失せ、心臓すら、動きを止める。  パンッ! という大きな拍手の音に、はっと春陽は意識を戻す。 「なんてね。ほら、怖かったでしょう?」  明るく笑って、陽太は言った。  今のは……何だったんだろう。  どこか遠くで、お前なぁ、と倫が陽太を注意しているのが分かった。心臓がばくばくと煩い。膝に置いた手を握り締める。汗ばんで、震えていた。 「春陽」  呼ばれた方に顔を向ける。 「おいで」  言われるまま、広げられた陽太の両腕の中にそっと収まる。 「ごめんね。怖がらせた」 「っ、は……あ」  ゆっくりと背中を撫でられ、呼吸をすることを思い出す。 「そうだよ。ゆっくり深呼吸して。……そう、上手だよ。良い子だね」  陽太の声を聞きながら、次第に落ち着きを取り戻していく。 「い、今の、なに……?」 「コマンド、ってやつだよ。DomがSubに対して行う命令のこと」  ため息をつきながら倫は言った。 「めい、れい?」 「はるちゃん、今軽くdropしたよね?」 「どろっぷ……?」 「パニック症状みたいなの。本当に酷いよねひなは。分かってやってるんだからさ」 「実体験した方が理解出来るでしょう? SubがDomに支配されるのが、どれだけ怖いか」  ……支配。今のがそうなのだろうか。真っ暗で何もない世界がそこにはあった。 「だからね、簡単にDomを信頼したら駄目だよ。分かった?」 「はい。……分かりました」 「良い子。はるは理解が早いね」  よしよしと頭を撫でられる。今度はふわりと軽くなった。 「はいはい、そこまで!」  倫が止めに入って、話は終わった。   ※※※※※  昼をすぎた頃、陽月が帰宅する。  春陽のことを陽月に任せ、陽太と倫は部屋を後にした。  並んで歩きながら、倫は悪態をつく。 「お前さぁ。ああいうの止めてやれよ」 「ああいうの?」 「はるちゃんにマイナスなコマンド使うの。ジョークにしたってやりすぎだぜ?」  ぴたりと陽太が足を止める。 「……随分とはるの肩を持つな、倫。気に入った?」  冷めた視線を投げて、にこり。 「……はぁ~。もうお前面倒くさすぎ!」  たかがこんなことで嫉妬しないで頂きたい。こっちは医者なのだ。患者の心配をして当然の身である。  悪かったよ、と陽太は謝った。 「もうしない。はるも分かっただろうしね」  目を伏せて、陽太は言う。 「何を分からせたんだよ」 「Domの危険性」 「違うだろ」  肌に触れる空気が冷たさを含んだ。珍しく、倫が怒っている。 「陽太は境界線を引いたんだよ。はるちゃんと自分の間に」 「……」 「隠したいならもっと上手くやれ。隠しきれないなら出してしまえ」  何を、とは聞かなかった。聞かなくとも既に陽太は分かっていたから。  倫は先に立って歩きだす。陽太はその背を見つめた。  陽月も、倫も、そして春陽も。揃いも揃って、陽太には眩しすぎた。コントラストが強すぎて、陽太の心の暗闇を一層濃く、はっきりと際立たせてしまう。 「出せるわけないだろう……」  独白は誰にも聞こえず、ただ一人の空間に溶けて消えた。

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