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第8話

〈第八話〉  夕食を摂る手を止めて、春陽はカーテンの閉まった窓を見つめる。 「どうした?」  陽月も手を止めて、春陽を見る。 「ううん……。何でもない」  愛想笑いを浮かべて食事に戻る。静かな部屋の中に、外の音が小さく聞こえる。 「雨か……」  陽太が呟いた。  食事の後も、春陽が眠るまで、と陽月がそばにいてくれた。 「……本当は抱きたいけど、もう少し体調が良くなってから」  笑って陽月は言う。残念、と春陽は素直に思う。  キスなんかじゃ全然足りない。不安な心が満たされない。……嫌だな、いつからこんなに欲情するようになったんだろう……。 「陽月、もう遅いから、そろそろ……」  これ以上一緒にいたら求めてしまいそうな自分が怖くなって、春陽はわざと疲れたような態度をとる。 「……そうだな。じゃあ俺は部屋へ帰るから……。おやすみ」 「うん。おやすみなさい……」  パタンと音を立てて厚い扉が閉まる。  一人になった部屋。  雨音が耳に届く。  嫌な事を思い出しそうで、春陽は頭まで布団をかぶると堅く目を閉じた。   ※※※※  その日も、雨が降っていた。ザアァ……という雨音をかき消すように、たくさんの食器が一度に割れる音に驚いて、春陽は部屋を飛び出した。 「母さん!?」  キッチンを見ると、割れた食器の破片の中で母が倒れていた。その体から、真っ赤な血がどんどん床に広がっていく。  病院に運ばれた時には既に意識がなく、衰弱して痩せた体の至る所に破片がつけた傷があった。  過労による事故死だと、医者は言う。けれど、春陽は母の異変に気付いていた。  亡くなる前の数日間、壊れたように泣き叫んだことがあった。話かけても、どこか虚ろで、瞳には光さえない。  過労死なんかじゃない。母さんは自殺したんだ。おかしくなっていく自分に耐えられなくて……。  葬儀の時に見た、母の体に付いていた青いあざ。今、春陽の体にも同じ物がある。  母の亡き後、ふと視線を感じることがあった。獲物を狩るような、気持ちの悪い視線。  辺りを見回しても、誰もいない。疲れているのだ、きっと気のせいだと、気付かないふりをしていた。  ――松前。  母が働いていた場所に、松前はいたのだ。  虚ろな頭で聞いた、松前の言葉……。  お前の母には与えすぎて耐えきれなかったが、今度はちゃんと『使える』ように気をつけるよ。お前は性奴隷なんだから   ※※※※  激しい音を立て、物が割れる音が聞こえる。  陽月は慌てて部屋を飛び出した。音がしたのは春陽の部屋からだ。狂ったように「怖い」と泣き叫ぶ春陽の声が響く。 「入っちゃ駄目だ!」  ドアの前で陽太に腕を掴まれる。 「放せ! 春陽を止めないと!」 「ひい、今はまだ待って。雅明たちに任せて、離れてて」 「だけどっ、春陽が苦しんでるのにっ!」  力任せに陽太の手を振り払おうとすると、逆に抑えつけられた。 「陽月!」  強く名前を呼ばれ、陽月の体が静止する。ああ、陽太のspaceに入ってしまう……そんな場合じゃないのに……。 「冷静になれ! 今お前が入って怪我でもしたら、春陽はお前を傷つけたって、一生後悔する。春陽を余計苦しめることになるんだぞ!」  陽太に怒鳴られて、陽月は大人しく瞳を揺らした。 「だけど……だけど……」 「……倫が鎮静剤を打ってくれる。そしたら、ひいの所に連れて行くから。どちらにせよ、この部屋では休めないし、ひいの隣で休ませればいい。ね?」  陽太の言葉に陽月の涙腺が緩む。「大丈夫だよ。落ち着いて」と、陽太に慰められた。大切な春陽が苦しんでいるのに、何も出来ない自分が歯痒かった。   ※※※※※  陽月を部屋へ返し、陽太は春陽の部屋へ入った。花瓶がひとつ壊れている。  破片を踏んではいないだろうかと、どこか冷静に陽太は思う。  春陽は床に背を丸めて小さくなっていた。嗚咽を漏らしながら泣いている。 「はる」  声をかけると、素早く顔をあげて陽太を見た。まるで恐ろしいものを見るかのような、怯えた瞳で。 「はる……」 「いやだっ……こないで、こないでよぉ……」  ガタガタと震えながら、まるで命乞いをするような春陽の態度に、心底腹が立った。  怯えるな。僕を、お前を傷付ける奴らと一緒にするな……。 「おねがい、たすけて、こわいよぉ」  春陽を捕まえようと手を伸ばす。けれど、既のところで陽太は動きを止めた。 「……たすけて……ひなにい……」  陽太は耳を疑った。今、春陽は誰を呼んだ……? 「ひなっ、にい……どこいっちゃったの」  大粒の涙を拭いながら泣きじゃくる春陽が、幼いころのそれと重なる。 『ひなにい。はるが、またなきだしちゃった。ひなにいがいいって』  困ったように、幼い陽月が助けを求めてくる。  ――ああ、そうだ。春陽は小さな頃から、僕じゃないと駄目だったんだ。 「春陽」  穏やかに声をかけると、春陽は怯えながらも陽太へ視線を寄越した。 《おいで。僕のそばへ》  陽太のコマンドに、春陽がぴくりと反応する。震える体で這いつくばったまま、ゆっくりと陽太のそばへ寄る。 「よく出来たね、春陽。良い子だ」  しっかりと抱きしめて、褒める。頭を撫でて、頬を寄せた。  暗く、虚ろとしていた春陽の瞳が、少しずつ色を取り戻していく。 「ひな、にい……?」  か細い声で陽太を呼ぶ。 「そうだよ、陽太だ」 「ひ、な……た」  呼び慣れていないように、春陽は一音一音大切に奏でた。 「ひなた…………陽太、さん……」 「そうだ。上手。ちゃんと呼んで」  春陽の瞳を見つめたまま、陽太は指示する。ひなにい、ひなた、と名前を紡ぎながら、「陽太さん」と、はっきりと春陽が認識を示した。そのタイミングを、陽太は逃さない。 《堕ちておいで。ここへ》  ふわり、と春陽の頬に桃色が差した。陽太さん、と嬉しそうに名前を繰り返す。 「可愛いね、春陽。すごく可愛い」  春陽の蕩けた瞳には、陽太の姿しか映していない。それが堪らなく愛しかった。  ずっと、ずっと欲しかった。自分だけの春陽が……。  それまで頬に寄せていた唇を、本来の場所へ。指を絡ませて、深く深く口付ける。 「愛してるよ、春陽」  そう告げると、春陽は心から幸せそうに瞳を閉じた。      ※※※※※ 「多分、悪い夢でも見て、現実との区別が出来なくなっただけだと思うよ」  倫はそう言っていた。陽月の隣で眠る春陽は、静かな寝息を立てていて、昨日の夜の錯乱が嘘のように安定している。  まだ春陽は目覚めそうにない。陽月は静かに部屋を出た。  柔らかい朝の光が廊下に降り注ぐ。気晴らしに、窓から外を眺めた。小さい頃、三人で遊んだ裏庭がそこにはある。  錆びたブランコも、もう遊ばない砂場も、思い出に、と残してある。窓を開けて外の空気を感じる。あの時と変わらない時間がそこには流れていた。 「ひい」  名前を呼ばれて顔を上げると、陽太が立っている。 「昨日はごめんね。怒鳴ったりして」  陽月は首を横に振る。 「はるはまだ眠ってる?」  今度は首を縦に振った。陽太は安心して息を吐くと、陽月の隣に並んで、同じように外を見た。 「……陽太」 「ん?」 「何で春陽を見つけたこと、黙ってたの……?」  小さな声で陽月は聞く。 「……はるが、小さい頃の記憶を無くしていたから。ひいが傷つくかなと思って。はるを困惑させたくもなかったしね」  裏目に出ちゃったけど、と陽太は苦笑する。 「……そうだな……。俺も、もっと大人になってから春陽に会えばよかった」  窓枠にかける手に力が籠もる。 「俺がもっと大人だったら、春陽が会いに来てくれた時に、そのまま連れて帰ってやれたのに。俺が春陽の借金も代わってやれたのに……。俺……、子供だから、何も出来なかった。春陽が苦しんでるのに、そばにいるのに、何もしてやれない……」  目の前が曇るのは、悔し涙のせいだ。無力な自分が、悔しくて悔しくてしょうがない。 「僕は、ひいがはるを買わなくてよかったと思ってるよ」  陽太は静かな声で言う。 「もし、ひいがはるを買っていたら、はるはずっとそれを気にして生きていくと思う。どうやったらひいにお金を返せるか、自分はそれに値する価値があるのか、ずっと悩んでいくと思うよ。好きな相手に、そんな悩みを抱えて生きるのは楽しくないだろ?」  にこりと笑う。大人が子供を諭す時の笑顔だ。事あるごとに、陽太が見せる表情。  陽月は涙を拭って陽太を見つめた。 「それに、今のはるが甘えられるのは、ひいしかいないんじゃないの? 僕には今回の件で後ろめたさがあるし、ひいは優しいと思い込んでるからね」 「…………陽太は、それで良かったのか?」  唐突に、陽月は陽太に言った。 「好きなんだろ。春陽のこと」  視線を向けると、真っ直ぐな陽月の瞳が陽太を捉えていた。  ひゅぅ、と窓から入り込んできた風が、二人の間を抜ける。無造作に髪が揺れた。 「……なんで?」 「見てれば分かる。何年陽太の弟やってると思ってんだよ」  むす、と膨れる陽月に、陽太は困ったように笑った。  昨日だってそうだ。悪い夢を見て、錯乱したのは事実だろう。けれど、陽月の隣に帰ってきた春陽は至極安心していた。陽太のspaceに入った後なのだと、陽月は否応無しに思い知らされた。  ごめんね、と静かな謝罪が陽太の口をつく。  何に対しての「ごめんね」なのか、陽月は分からなかった。欲しいなら欲しいと言えばいいのに。まあ、言われたところで譲る気はさらさらないけれど。  陽太は器用に見えて、本当は不器用だった。望むことはせず、手に入れても簡単に離してしまう。  でも、それでは困るのだ。春陽だって、ダイナミクスとしての相手は必要なのだから。 「春陽のΩとしての番は俺だから。でも、Subとしての本物なら譲ってもいい」 「ひい……」 「dropさせたら怒る」  分かったか、と陽月は陽太に釘をさした。まるで普段と立場が逆転したみたいだ、と陽太は思う。  ずっと陽月は子供だと思っていたけれど、本当はすっかり大人になっていたのだ。自分が手を離してもいいくらいに。 「うん。分かった」  陽太は穏やかにそう答えた。陽月も、陽太の気持ちを受け取って、笑った。  そうして言葉にせず二人は誓う。今度こそ春陽を守ってやるんだ、と。

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