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第9話

〈第九話〉  春陽が目を覚ますと、隣には陽月がいた。「おはよう」と、春陽に声をかけながら、優しい手付きで髪を撫で、キスをくれる。  まだ億劫な体を起こして辺りを見た。生活感のある室内は、用意されたばかりの春部屋とは違う。  陽月の部屋だと理解して、なぜここにいるのか思い出そうとする。ズキン、と頭が痛んだ。  そうだ……俺、昨日夢を見て……。 「春陽、大丈夫か……?」  陽月が心配そうに顔を覗き込んでくる。 「俺、夢見たんだ。……母さんが死んだ時の……。母さんの体に、俺と同じような注射針の跡があって、俺……」  うわ言のようにそうこぼして、手のひらを見る。恐怖からか震えていた。そんな春陽の手を、陽月は両手で優しく包む。 「大丈夫。もう大丈夫だ」  言いながら、陽月は春陽の指先に優しくキスを落とした。……まるで王子様みたい、と春陽は思う。 「怖いことなんて、もうない。俺がついてる」 「っ、うんっ……」  緊張が解けたせいか、春陽は陽月の腕に包まれ、少しだけ泣いた。  軽く食事を済ませる。「気分転換でもしよう」と陽月は春陽を外へ連れ出してくれた。  外は昨日の雨が嘘のようだ。手入れの行き届いた花壇から、花々のいい香りがした。その中を二人は手を繋いで歩く。 「……懐かしいな」 「え?」 「小さい頃も、よくこうしてた。春陽が躓いて転ばないように、俺がしっかり手をつないでたんだよ」  陽月は目を細めて笑う。春陽はそんなこと記憶になくて、反応に困った。けれど、繋いだ手の温かさが妙に落ち着くのは、きっとそのせいなんだと思う。  春陽も、陽月と記憶の一部を共有しているかのようで嬉しくなった。 「裏庭に行こう。昔のままになってるんだ」  陽月に誘われるまま、裏庭へと回る。そこは正面と違って小さく作られていて、子供用の錆びたブランコがあった。 「あれ、これ……」  見たことがあるような気がして、春陽はブランコに手をかける。キイィ、とブランコは錆びた音を立てた。 「……春陽? どうした?」  ブランコに触れたまま春陽は静止した。それを不思議に思ったのか、陽月が聞いてくる。 「俺…………このブランコ、知ってる……」 「え?」 「このブランコで、俺、怪我したんだよね」  駄目だと言われていたのに、一人で乗って、落ちて怪我をしたのだ。そしたら陽月が飛んできて、自分が怪我したわけでもないのに大泣きして……。 「あったっけ、そんなこと」  陽月は照れたように頬を掻いた。 「うん。助けてあげられなかったって」  笑っちゃいけないと思うけど、小さい頃の陽月が可愛くて、クスッと笑う。 「…………と言うか、春陽、記憶……」 「あ……」  そうだ。何でこんなこと言ってるんだろう。  春陽は小学校に入る前、頭を強打せいで、小さい頃の記憶を無くしていた。なのになぜ今、断片的にも思い出したんだろう……。 「……何か“キッカケ”があれば思い出すのかもしれないな……」  陽月は春陽の顔をじっと見つめて言った。  春陽が倫にその話をすると、倫は真面目な顔で話を聞いてくれた。 「もしかして……はるちゃんの記憶喪失は意図的に起こしたんじゃないのかな?」 「意図的に……? 俺が?」 「そう。例えば、恐怖体験をすると、反射的に脳はそれを忘れるような行動を起こすことがあるんだ。自分自身を守るようにね。はるちゃんの場合は、ひいちゃんと別れたショックから、それ自体を忘れようとしたんじゃないかな」 「それって、記憶が戻っても問題はないのか?」  陽月が心配するように倫に聞く。 「一時的に脳に負担が掛かるから、パニック症状を起こすことがあるかもしれないけど……大丈夫だよ。今はひいちゃんが居てくれるから」 「そうなんですね……良かった」  過去の記憶から呼び起こされる恐怖を、春陽は痛いほど知っている。  でも、もう平気だ。陽月がいるから。  愛しい人に視線を送ると、陽月も同じように春陽を視線を返して、どちらからともなくキスをした。   ※※※※※  ――それから数日  体調もかなり回復してきて、春陽はいつものような元気を取り戻してきた。新しい生活にも少しずつ慣れてきている。  春陽は、陽太と一緒に住んでいたアパートに荷物を取りに戻った。松前たちに不法侵入されていた割には、部屋は荒らされた形跡はなく、数日空けていたと思えない程きれいだった。 「勝手だったけど、掃除に入ったからね」  そう言う陽太に、ありがとう、と春陽はお礼を伝えた。西日が射し込む部屋。相変わらず、運転し始めたエアコンの効きはいまいちだ。 「必要な物だけ、すぐにまとめるね」  春陽は学校で使う物を中心に、手早く鞄に詰めた。 「服はどうしようか? ワンピース、記念にとっておく?」  小さなクローゼットを開きながら、陽太は春陽に聞いてくる。 「いや、思い出したくないこともあるから片付ける。売ったらいくらかお金になるし。……この前割った花瓶は買えないかもしれないけど……」 「はる。もう気にしなくていいんだよ。お金のことは言いっこなし。ね?」  陽太は優しい笑顔で言う。 「ごめん。つい」  春陽は苦笑いした。お金のこともそうだが、いつまでも敬語が抜けない春陽に、「敬語じゃなくてもいいよ」と陽太は告げた。 「だっておかしいでしょ? 家族なのに」 「あ、はい……」 「はる?」 「だってクセで……なかなか抜けないじゃないです……ぬけな……抜けないよねっ!」  いい直そうとあたふたする春陽が可愛いかった。  美味しそうにご飯を食べる姿も、寝癖を残したまま起きてくる姿も、ぱたぱたと靴を鳴らして、出迎えてくれる姿も。どんな春陽でも、陽太は愛しく思う。 「いよ、っと」  両手がふさがっているせいか、足を使って扉を閉める、ちょっと行儀の悪い姿も。  思わず陽太が笑うと、それに気がついた春陽は顔を赤くした。 「み、見てた?」 「うん」 「忘れて」 「忘れないよ」 「ひな兄のいじわる」  こんな他愛無いやり取りも、幸せのかたちなのだ。  話しながらも手を動かし、テーブルの上に一冊のノートが残った。シュンの仕事の記録――顧客情報を記したノート。力を込めて春陽は二つに破いた。  びり、びりとノートをちぎる春陽を、陽太は驚きの顔で見ていた。 「もういらない。二度と見ることなんてないから」  春陽は笑顔で答えたつもりだった。上手く表情が作れていたかは分からないけれど。  あの時は、これが春陽の世界だった。とても汚くて、けれど自分なりに懸命に生きていた時間。尊くも、出来るなら、消したい記憶……。  飾ってあった母の写真も大切に抱き抱えた。  母が瀬野家を出た理由は、陽太が教えてくれた。元々、使用人として働いていた母に、父が惚れて結婚したらしい。  だけど、どこの馬の骨かもわからない女が気に入らなかった祖父は、最終的に母を家から追い出した。  父は婿養子でもあったせいで、祖父には大きく出られる立場でもなくて……。母は誰かに頼ることもできず、唯一連れ出した春陽を一人育ててくれた。  そして、松前に……。 「本当は、祖父様が亡くなって、すぐにでもはるを迎えに行こうと思ったんだ。だけど、はるはもう、あの仕事をしていたから……。今更何て言っていいか分からなくて、客になりすまして、はるを見ていたんだよ」  やっぱりあの時に迎えに行けばよかった、と無念そうに言う陽太に、どんな言葉を返すべきか分からない。  お客さんだとしても感謝しています、なんて失礼だろうか。それほど『高橋さん』にずっと支えてもらっていたのは事実だ。あの人の前でだけ、シュンは春陽に戻れたのだから。  クローゼットの中を整理していた陽太が、一着のスーツを手に取る。処分に回そうとしていたそれを、春陽は慌てて止めた。 「ああっ! それはだめ!」 「どうして? 新しいのを買えばいいよ」  そう言う陽太の手から、スーツを取り返す。 「だって、ひな兄が買ってくれたやつだから」  胸元でギュッとそれを抱きかかえて春陽は言った。大切だもん、と。少し照れくさそうに。  まったく、この子はどこまで可愛いことを言ってくれるんだろう。お陰で陽太の表情筋は緩みっぱなしになる。 「今度、新しいのを買いに行こうね」 「い、いらない。クローゼットの中、いっぱいあったじゃん」 「買わせてくれないの?」 「う……」  陽太に、少し寂しそうにおねだりされ、春陽も言葉に詰まる。そうやって甘やかす陽太に、春陽も甘やかされたいと思ってしまう。でも、現実的にクローゼットの中はパンパンなのだ。 「はるちゃんは、ひなの運命の相手なのかもね」  倫はそう春陽に告げた。 「えっ? ええと……番は陽月なんですよね?」 「うん、オメガ性としてのね。それは間違いないと思うよ。ひなはダイナミクスの方」  春陽は混乱した。  オメガ性としての番は間違いなく陽月で、ダイナミクス性の運命の相手が陽太。  ならば、自分には二人の運命の人がいる、ということになる。  それで良いのだろうか。最終的に、どちらかを選ぶようになるのだろうか。  陽月のことはもちろん好きだ。でも陽太も。ずっと一緒にいたいと思う。 「どっちも……選べないよ……」  しゅん、と俯く春陽に、倫は、大丈夫、と笑った。 「性質や求めるものが違うから、どっちか選ぶ必要ないんだよ。はるちゃんが、今日はどっちと居たいのかで決めちゃって」  選ぶ必要がない――そう言われてほっとした。なら、ずっと三人でいてもいいのか。  陽太のそばにいると安心する。心が軽くなっていくのだ。ふわふわ、ふわふわ。たまに、そのふわふわがずっと続いて、無意識のうちに陽太のspaceに入ってしまっているらしい。  無論、陽太としては大歓迎なので、何も言うことはない。が、 「はるちゃん! しっかり意識持とう!」  と、倫に注意されてしまった。  アパートの片付けを終える。大きな家具は残しておいて、後日業者に引き取ってもらう手筈になっていた。  春陽は多少散らかし癖があったため、いざ片付けてみると、意外とこの部屋も広かったんだな、と思った。 「……寂しい?」  静かに部屋の中を見渡す春陽に、陽太は聞いた。 「うん……少しだけ。まぁ、最後はなんか、嫌な思い出になっちゃったけど」  不法侵入されて、拐われて……。嫌な感情を残して去るのも、なぜか悪い気がした。たった一人でも、大切な自分の居場所だったから。 「じゃあ、楽しい思い出作って帰る?」 「え?」 「遊ぼう、春陽」  陽太はそう言った。  ……陽太の近くにいて、気づいた事がある。陽太はいつもは愛称で春陽を呼ぶ。わざわざ「春陽」と呼ぶのは、Domの性質を実行する時だった。それを受けて、春陽のSubとしての性質も顔を覗かせ始める。 「あ、そぶ……って?」 「Playしよう」  とくん、と春陽の心臓が高鳴る。こんな風に"誘われた"のは初めてだった。  陽太はベッドに座り両手を広げる。 《おいで》  呼ばれるまま、陽太の前に膝立ちになった。良い子、と囁く陽太の顔を上から見つめて、キスをする。  唇が離れると、春陽はふい、と陽太から視線をそらした。 「どうしたの?」  頬を赤く染めた春陽は、何も言わない。 「教えて。何を考えてる?」 「う……」 「春陽、言ってごらん」  名前を呼んで、少し強めの指示を出すと、春陽はぽつりとこぼした。 「は……はじめて、みたい」 「ん?」 「ちゃんと……誘われたの……初めて、だから……」  恥ずかしい、と。真っ赤になりながら春陽は告げる。  何度もしてきた行為。そう言われれば、いつも自然と始まっていた。もしくは始めざるを得なかった。  こうして、春陽の意識がはっきりとある状態でのスタートは、確かに初めてかもしれない。 「本当……可愛いことを言うね、春陽」  頭を撫でて褒める。春陽の口角が嬉しそうに上がった。  ならば、絶対に忘れられない初めてにしてあげたい、と陽太は思う。 「春陽、今日はいつもよりも、とびきり気持ちよくしようか」  陽太の手のひらが春陽の腰に触れて、膝の上にお座りを促す。見つめあったまま、陽太はコマンドを放つ。 《イかせてあげる》  ――途端、ぞくぞくとした快感が春陽の背中を駆け抜けた。 「っ! ひ……あっ……!?」  びくんっ、と春陽の体が跳ねる。大好きな陽太の手のひらに腰を撫でられて、かくんと力が抜けていく。何が起きているのか、春陽は理解が出来なかった。  逃げられないように春陽の体を引き寄せ、陽太は、とんとん、と優しく春陽の腰を叩く。その先には、春陽の子宮があった。  甘い声が春陽の口から漏れる。直接そこに触れられているわけでもないのに、まるで中を侵されているみたいな感覚に陥る。キュンッと切なく締まるのが春陽にも分かった。 「あっ、あ、ひなっ……」 「気持ちいい?」 「きもちいいっ……です……!」  なぜこんなにも感じてしまうのだろう。恥ずかしいのに、陽太の太腿に自分の股間を擦りつけるのがやめられない。  上手に腰が振れてるね、と褒められ、もう頭がどうにかなりそうだった。 「陽太さんっ、陽太さんっ、ん、も……うっ……」  じわ、と春陽の目じりに涙が浮かぶ。限界だった。解放されたくて、春陽は自分から陽太の唇を塞ぐ。可愛い、と陽太は満足そうな声を漏らした。  春陽の頭を引き寄せ、耳朶を甘噛すると、そこから春陽の脳内に直接言葉を注ぎ込む。 「イっていいよ」  陽太からの許可が降りる。春陽は目を見開いた。分かるのだ、快感の波に押し流されるのが。  陽太の腕の中でとろけるような甘い叫声を上げ、春陽は達する。漏らした愛液がぐっしょりと二人のズボンを濡らした。  はあはあと、肩で息をする春陽の髪を撫でて、陽太は褒める。 「上手にイけたね。良い子だよ……春陽」  褒められているということは、陽太の動作で分かった。けれど、言葉は理解出来なかった。  頬を撫でられる。口付けを求められているのだと、反射的に顔をあげた。 「可愛いね春陽……愛してる」  優しい音は届くのに、何が起きたのか分からないまま、春陽は陽太の腕の中で静かに瞳を閉じた。  

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