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夕汰は午後の授業をいつにもまして上の空で過ごした。
「夕汰、食べないの? お味噌汁の味付け、濃かった?」
帰宅してからもぼんやり、夕食の席で祖母に心配されると手を付けていなかったお味噌汁を慌ててかっ込んだ。
「あちちっ」
熱々の豆腐に目を白黒させていたら隣に座る父親に「食事は落ち着いてとろうか、夕汰」と注意された。
「この間から心ここにあらずみたいな感じだけど、っ、あちち……」
我が子を注意したそばからお味噌汁の熱さに夕汰の父親、春貴(はるき)は同じく驚き、ダイニングテーブルの向かい側についていた彼の両親は揃って肩を竦めた。
「ふぅふぅ……お味噌汁、別に濃くない。アオサがおいしいよ」
今年で四十六歳になる司法書士の春貴は島で開業して一人で働いている。
弁護士だった年上の妻と結婚する前は総合事務所に所属しており、結婚後は夫婦二人で法律事務所を営んでいた、離婚する日まで……。
「アオサ、おいしいよね。今日は入ってないけどエノキのお味噌汁も好きだよ、おれ」
「夕汰はクローバーのお味噌汁が好きなんじゃないの」
祖母の素っ頓狂な発言に夕汰も、隣にいた春貴も揃って目を丸くさせた。
「クローバーのお味噌汁なんて、母さん、つくったことあったっけ?」
「おばあちゃんのお味噌汁で、そんなの、飲んだ覚えないけど」
親子のリアクションに祖母と祖父は顔を見合わせる。
「すっかり忘れてるみたい」
「二人とも揃って忘れっぽいんだなぁ」
祖父母の不可解な会話に夕汰は限界まで首を傾げるのだった。
「夕汰、ちょっといいかな」
夜の九時過ぎ、自分の部屋で宿題をやろうとして、まるで手につかずにいた夕汰はお古の学習机から慌てて立ち上がる。
ドアを開けばお風呂上がりの春貴が立っていた。
「最近、様子が変だったけど、もしかして学校で何かあった?」
ベッドに浅く腰かけた春貴に問われ、去年に購入した回転イスに座る夕汰は思わず口ごもる。
「その首の傷も本当に猫?」
ストライプ柄の長袖パジャマを着てバスタオルを肩に引っ掛け、いつもならドライヤーですぐに髪を乾かす春貴は濡れた頭のまま我が子の部屋を訪れていた。
(言えるわけない)
発情期になった御社くんに噛みつかれたなんて。
その上、まさか、あんなとんでもない提案をされるなんて……。
「な、ない」
「夕汰は本当に嘘が下手だなぁ」
「ぷぅぅ……」
「それが夕汰のいいところだとは思うけど」
パチパチ瞬きする夕汰に春貴はそっと笑いかけてきた。
「もう一年経ったね、ここに来て」
「うん」
「僕は来てよかったって思ってる」
「なんで?」
「夕汰が元気になったから」
ベッドから立ち上がった春貴に頭を撫でられて夕汰は頭をブンブン振る。
「ぷぅぅ!」
「あれ。怒ってる?」
「おれもう小さな子供じゃないっ」
失笑している父親に夕汰は口を尖らせた。
自分もイスから立ち上がり、数センチ高い春貴と向かい合う。
(おれのせいでお母さんと離婚して後悔してない?)
そう聞こうとして、急に怖くなって、その問いかけは喉奥に引っ込めた。
「……この傷は猫だってば。多分治ってきたし、絆創膏もその内いらなくなるから。今日は学校でちょっと色々あって、それで」
「学校でちょっと色々、か」
「た、大したことじゃないから。そんな心配されるようなことじゃない」
「いじめられてるとかじゃない?」
「いじめられてないっ」
(しょっちゅうからかわれてるけど、あんなの慣れっこだし)
【化けもの】の血が流れている混種のくせに病弱でおっちょこちょい。
混種が人口の大半を占める神渡島とは違う、【ひと】と混種が半々だった小学校・中学の教室で双方からよく言われたものだ。
「友達もできたし、確かに前より体の調子もよくなったし……そんなに大したことじゃないから、ほんと」
「夕汰は神渡島に来てよかったって思う?」
夕食前にお風呂に入り、すでに乾いていた頭をまた春貴に撫でられて、夕汰は返答に窮する。
(純血の【化けもの】の御社くんに出会えたのは何物にも代え難い貴重な経験かもしれない)
出会ってからついこの間までは塩対応だった。
それが、あんなこと言ってくるなんて、誰が想像できただろう。
『御社に嫁入りしないか、夕汰』
(ありえなさすぎる)
今日の昼休み、屋上で丞がかました衝撃発言。
もちろん夕汰はその場で大慌て、当然の如く断ったのだが。
『返事は急がなくていい。しばらく考えてみてほしい』
「いやいや、ほんとありえない」
春貴が階下へ去り、自室で一人になった夕汰は浮かない顔で学習机に頬杖を突いた。
(ていうか、あれ、いわゆるプロポーズ……になるのかな)
燃え盛る家へ躊躇なく飛び込んで子供を助け出した、文武両道、おまけに顔よしスタイルよし、非の打ち所がない完全無欠のスーパーヒーロー。
そんな丞からの想像もしてみなかった嫁に来い的発言を思い出し、夕汰は、赤面する。
「いや、だから、ありえないってば……おれ男なんですけど……」
これまでの塩対応を考えると、発情期に突入して正気を失っていた自分がしたことに途方もない責任を感じ、苦心して導き出した償いに違いない。
(それで男のおれに嫁に来いっていうのもズレてるというか)
「もしもおれが女の子だったら……いやいやいやいや、なんか古風……?」
未遂に終わっていて最後までされたわけではない。
発情期で正気をなくしていて、過失で、事故にも等しい。
噛みつかれはしたが、処置されていたし、噛み痕だっていずれ消える。
(それに……)
御社くんが好きなのはシロツメさんだ。
おれじゃない……。
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