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初夜-9

気づくと、ベッドの上に寝ていた。汗でぐちゃぐちゃだったはずの体はさっぱりとしていた。バスローブも綺麗に着せられている。 「──おはよ。まだ夜だけど」 顔を上げると、寝転がっている蘭の横にアゲハが腰掛けている。シャワーを浴びた後なのか、バスローブ姿で前髪を下ろしている。 髪型のせいか先ほどまでより少し幼い印象を受けるが、品の良さは健在だ。 「お腹空いたでしょ?何も食べてないもんね。ちゃんと食べたかったら他にも頼むから遠慮しないで言って」 目をやると、ナイトテーブルに軽食が置かれていた。ルームサービスで頼んでくれたらしい。そう言われると、なんだか空腹を感じてきた。 「ありがとう。これだけで、大丈夫」 そう?と言ってアゲハが微笑む。 食べな、と声をかけてくれたので、恐る恐るサンドイッチを手に取る。 パンが柔らかくて食感がいい。きっと美味しいんだろうけれど、なんだか夢見心地で味がよくわからなかった。 初めての土地で、初めての高級ホテル。複数の知らない女性に襲われて、その後、知り合ったばかりの男に抱かれる。言葉にしても現実味がない。 でも、アゲハとの交わりは──良かった。…言葉にできないくらい。 「忘れないうちに、今日の報酬」 甘くて危ういひとときを思い返していると、アゲハが封筒を渡してくる。 中を確認した蘭は目を見開いた。 相場はよくわからないけれど、なんとなくで想像していたよりかなり多く入っていた。 「多くない?」 「そう?彼女たちちょっと色つけてくれたみたいだし、俺からみてもよく働いてくれたと思うから、正当な金額だと思うけど」 「こんな金額、受け取れない」 妙に恐ろしくなって、思わず封筒を突き返す蘭の手をアゲハが取る。 「これは、君に対する適切な対価だ。受け取ってくれないと困るよ」 真剣なアゲハの表情に、蘭がしぶしぶ「わかった」と頷くと、優しく頭を撫でられた。 「…アゲハが、着替えさせてたんだよね。ありがとう」 蘭が礼を言うと、アゲハは少し悪戯っぽく、くすっと笑う。 「蘭、体洗ってる時も甘えてきて…可愛かったよ」 ぎょっとする。全く覚えていない。というか、俺は意識があったのか?正直信じられなかった。 「う、うそだ」 アゲハは嘘だともそうじゃないとも言わずに笑っているだけだ。 ふと、アゲハが「ちょっとタバコ吸ってくる」と言ってベッドから立ち上がる。重みがなくなって無性に寂しかった。 「俺も着いて行っていい?」と思わず言うと、アゲハは少し驚いた顔をしてから、ふわっと笑って「いいよ」と言ってくれた。 風は吹いていたけれど、夏の東京はむわっとした空気を纏わせて、冷房がついていた室内よりもじめじめとしていた。 夜も深まって煌びやかになってきた街の灯りを見下ろしながら、アゲハがタバコの火をつける。 昨日、買っていた銘柄だった。 綺麗な形の唇から煙が吐かれる。 いかにもタバコといった匂い。ただ、微かに甘さを感じた気がした。 それがその銘柄特有のものなのか、アゲハだからそう感じるのか…蘭にはわからなかった。 「…めちゃくちゃにしたいなんて言って、優しかったね」 ふとそんなことを言ってみると、アゲハが苦笑する。 「初めての子にそんなひどいことする男じゃないよ」 アゲハがタバコを携帯灰皿に押し付けながら、蘭に顔を近づけてくる。タバコの匂いに香水の匂いがほんのりと混じって、くらくらとする。 「──次は、ひどくしてほしい?」 艶のある囁き声に、体がぞくっと甘く痺れる。アゲハに何度も濃厚に触れられた体が、切なく疼いてきた。 思わず「してほしい、かも」と溢すと、くすっとアゲハが笑った。 「…これが、アゲハの仕事?」 「いや、本業は風俗店の経営。まだ手伝い程度だけどね。今日みたいなブローカー…まあ、いたいけな若い子を金持ちに売る仕事だね。こっちは趣味」 一応、法は犯してないよ、とおちゃらけた様子でアゲハが言う。 「…俺、海外とかに売られるの?」 恐る恐る訊いてみると、きょとんとしてからアゲハが吹き出す。 「まさか。俺、ガイジン嫌いだもん」 明らかな侮蔑の意味を込めた言葉。垣間見えた彼の本性に、ゾッと背筋が冷たくなった。 アゲハはかなり目鼻立ちがはっきりしていて、日本人にしては肌が白く、瞳の色が薄かった。だから、外国の血が混じっている気がするのだけれど…そうだとしたら、どうして外国人を嫌ってなんかいるんだろう。 「よかったらまた俺としない?向いてると思うんだよね、蘭」 アゲハは話を逸らすように、作ったような笑顔を見せる。蘭は目を伏せ、少しためらってから口を開く。 「…仕事終わった後、アゲハが抱いてくれるなら…いいよ」 アゲハが面食らった顔をする。少し困惑した様子で「案外、おねだり上手なんだね」と言われて、顔が熱くなるのを感じた。 「…ダメ、かな」 上目遣いで窺うと、アゲハがくすっと笑ってから蘭の頬に優しくキスをする。 「いいよ。──上手にできたら、ね?」 甘い声に、どきどきと胸が高鳴る。そっとアゲハの手に触れると、優しく握り返してくれた。 指の感触、伝わる熱。きっと、一生忘れることはない。 これが蘭とアゲハの出会い。 甘くて痛くて──倒錯的な恋の始まり。

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