17 / 36

第3夜-3

後日、アゲハが紹介してくれた店を訪れた。話は通してくれているらしい。アゲハに送って行こうかと言われたけど、駅から歩いて行けるところだったので断った。仕事以外で足に使うのは気が引けたからだ。 一見ただのバーのように見える。そして、そのバーの取手には「close」のプレートがかかっていた。 蘭は困惑する。 きょろきょろと周りを見回したり、中を覗いてみるが、人の気配すらない。 どうしたものか、と途方に暮れていた時。 「──蘭くん?」 背後から声をかけられて、ばっと振り向いた。 そこには1人の男が立っていた。蘭は怪訝そうな顔をする。──この人、どこかで見たような…。 戸惑っていると、男は小さく笑って手をひらひら振った。 「こないだはどうも。1ヶ月ぶりくらい?」 そのセリフで、その男が、アゲハに連れて行かれた美容院の美容師だと思い出した。 「あ、お、お久しぶりです」 なんでこの人がここに?と思いながら、蘭が恐る恐る美容師の彼を窺う。 「えと…すみません。お名前…」 「あ、そういや名乗ってなかったっけ。ライって呼んで」 「ライさん。この間はありがとうございました」 慌てて頭を下げる蘭に、ライが苦笑する。 「そんな固くならなくていいよ。ごめんね、こんなに早く来ると思ってなかったから」 え、と声を上げる蘭に、ライが手招きする。 「まだ入口は閉まってるから、こっちからおいで」 どういうことだろう。この人、美容師だよな? 困惑しながらも、蘭は裏の方に向かうライの後に着いていった。 中はいかにもバーといった感じだった。 薄暗く妖艶な雰囲気。カウンターの真後ろにある大量の酒瓶。そういう場所に行き慣れていない蘭のような人間が想像するような内装だ。 今はまだ外が薄明るく、電気がついていないけれど、バーの照明がついたらもっと雰囲気が出るんだろうなと想像できる。 「このバーの一角で施術をしていてね。基本紹介制だから、ネットとかにも載ってない。あ、もちろん今回はアゲハの紹介だから大丈夫だよ」と、ライが説明してくれて、ようやくこの場所を指定されたことに納得がいった。 「…ライさんがやってくれるんですか?」 蘭が恐る恐る尋ねる。ライは美容師らしく小綺麗にしているけれど、どこにでもいそうな感じの良い男という印象だ。夜の世界にいそうな雰囲気ではない。 蘭の問いかけに、ライが苦笑する。 「俺にそんな技術ないよ。俺は昼は美容師で、夜はここでバーの店長をしてるってだけだから。でも彼女、腕のいい彫師だから、安心して」 そう言いながら、奥にある扉を開く。中を覗いたライが、少し驚いた表情をした。 「──と、もう来てたのか。レイナ」 中では、女性が座りながらキセルを吹かしていた。明るく長い髪を一つに束ねている。もみあげに剃り込みを入れていて、そのすぐ下に蛇のタトゥーが入っていた。 よく見ると腕や胸のあたりにも同じようなデザインのタトゥーがある。 「こっちのセリフ。道具手入れしようと思って早めに来たのに」 レイナと呼ばれた彼女は、抑揚のない声でそう言った。 部屋は狭かったけれど、中は案外明るく、清潔感があった。小洒落た美容室のような雰囲気だ。 長机が一つあって、その上に何本かのナイフが箱の中に整頓されて置いてあった。 鋭く、綺麗に磨かれたそれに、ぞくっと背筋が凍る。 奥には診療台のような大きな台もある。 「すみません。手入れするなら、俺、待ってますから」 「いいよ。今日使う分は終わったから」 蘭が気を遣って言うと、レイナが灰皿に灰を捨てながら淡々と告げる。クールな人だな、という印象を受けた。そんな様子を見ていたライは、くるっと踵を返して部屋を出て行こうとしていた。 「じゃあ、あとは任せていいかな?」 「見学してかないの?」 揶揄う調子のレイナに、ライが苦笑する。 「俺が血が苦手なの知ってるくせに」 血、という言葉にぞわっとする。…傷って言ってたもんな。 怖いと思いながらも、赤く滲む血を想像してぞくぞくしてしまう。改めて自分が狂っていることを思い知らされる。 ライが出て行ってから、「そこ座って」とレイナの目の前の席を指さされる。 蘭がおずおずと席につくと、レイナがじっと見つめてきた。 「君もアゲハに飼われてるんだよね」 アゲハの名前が出てきて、ぎくっと心臓が跳ねる。…やっぱり、、なんだなと。 「…アゲハが世話してる人って、いっぱいいるんですかね」 「いっぱいかは知らないけど、何人かは見たことあるよ」 あっさりとレイナが告げる。 予想通りの答えだった。薄々勘づいていたとはいえ、いざ決定的な話を聞くと良い気はしない。ただ、もっと傷つくと思っていたけれど、案外冷静な自分に我ながら少し戸惑う。 アゲハに騙されて体を売った時もそうだったけど、夜の世界に存外すんなりと溶け込む自分に、どういうわけか違和感をあまり感じなかった。 「タトゥーを入れたことは?」 「ないです」 「それなのによくこんなのやろうとするね。気が知れない」 レイナは珍しいものを見るような目をする。施術する側の人間の言うこととは思えない。 「レイナさん…は、やってないんですか?…えっと、スカリフィケーション」 「やったことはあるよ。ほら」 そう言ってレイナが左の前腕の内側を見せてきた。ケルト風の花のような模様が小さく彫られている。 「一回やってみたんだけど、痛すぎてもうやりたくないってなったよね」 その痛みを思い出すように顔を歪めるレイナに、動悸がしてきた。 こんなにタトゥーだらけの彫師の人が言うって、よっぽどなんだろうな。と恐怖心を煽られる。 「…じゃあ、なんで彫師なんてやってるんですか?」 純粋な疑問をぶつけてみると、レイナは少し考える素振りを見せてから「…向いてるから?」と人ごとのように言った。 適当だな、と苦笑しながらも、今の自分ももしかしたらそうなのかもしれないと蘭は思う。 今、アゲハとしているで、特別なことをしているつもりはない。けれど、客は喜ぶし、アゲハは褒めてくれる。 天職ってやつだろうか、と烏滸がましいかもしれないけれど、そんなことを思った。

ともだちにシェアしよう!