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第3夜-8

アゲハがアスカに連れられてやってきてから数週間経った頃。キリヤが買い出しから戻ってくると、アゲハが裏口の階段の側で座り込んでいた。 顔を殴られたようで、頬が腫れている。 「──なんか悪さしたの?」 声をかけると、アゲハが驚いた様子でキリヤを見上げる。キリヤの顔を見てもしばらく戸惑っていたが、思い出したように「…あ」と呟く。 「ライのとこの…」 「お、俺のこと知ってた?キリヤって呼んでね」 アゲハが、「キリヤ」とぼそっと反芻する。彼は、今日はうちのバーで手伝いをしてくれていたはずだ。 「で、アゲハくん?は何したの?」 キリヤが彼の隣に座り込んでそう訊くと、アゲハは目を泳がせてから、聞こえるか聞こえないかといった声の大きさで呟く。 「…客を殴った」 「うわお、強烈。で、ライさんに怒られて追い出されたってワケね」 へらへらと笑うキリヤに、アゲハが目を伏せる。 「なんか嫌なこと言われた?あっちが酔っ払ってて先に殴ってきたとか?」 「…俺が悪いとは思わないの?」 意外そうな目で見てくるアゲハに、キリヤがきょとんとする。 「え?だってキミ、いつも真面目に働いてんじゃん。意味もないのにそんなことする子じゃないっしょ」 目を丸くしてから、アゲハはまた俯いたものの、ぽつぽつと話し始めてくれた。 「…その客、騒いでて、俺にぶつかってきて…『すみません』って言ったけど舌打ちされて。…まあ、それは別にいいんだけど…」 アゲハがぐっと拳を握る。 「『なんだお前、ガイジンか?日本のことよくわかんないんか』って、馬鹿にされて…カッとなって」 震える声でアゲハが言う。話を聞いたキリヤは、なるほどね、と納得する。 伝え聞いた話だけれど、アゲハの母親はウクライナの出身だそうだ。留学生だった母親は、金がなくて水商売をしていた中で、客との子をもうけた。 それがアゲハだった。 本当の父親はわからないらしいが、母親はまた別の日本人と結婚していて、戸籍上の父親はいるようだ。 アゲハは外国人を毛嫌いしている。そのことからも、親とうまくいってるとは思えないし、なんなら同級生たちからもいじめを受けてきたみたいな話も聞いた。 キリヤはアゲハとちゃんと会話をするのはこれが初めてだ。だから、噂程度にしか彼のことを聞いたことがなかったけれど、その情報だけでも、非行に走ったことも仕方ないと思えてしまうような悲惨な生い立ちだった。 アゲハは血が出るんじゃないかというくらい拳を握りしめて、泣きそうに顔を歪める。 「こんな顔、嫌いだ。これがなきゃ、もっとまともに生きれたのに」 「え〜、もったいね〜」 眉を寄せて、思わずそんなことを口にしてしまった。キリヤの心底残念そうな声に、アゲハは困惑する。 「ガイジンってモテるじゃん?しかもアゲハくんかっこいいしさ。…利用してやりゃいいじゃん」 「利用…?」 首を傾げるアゲハに、思わず小さく笑った。 見当がつかないあたり、いくら大人びていても子供だなんだなと微笑ましい気持ちすら湧いてきた。 キリヤはニヤッと不敵な笑みを浮かべながら、そっと耳打ちする。 「──色仕掛けだよ。寄ってきたヤツ惚れさせてさ、いいように使ってやれば?」 アゲハは色仕掛けと聞いて、顔を赤くした。いつもどこか厭世的な態度をとり、子供らしい表情ひとつ見せない少年のウブな反応に、キリヤは思わずにやにやとしてしまう。 アゲハが目を泳がせてから、キリヤを恐る恐る窺った。 「好意を利用するってこと?」 「だって、みんなアゲハがちょっと人と違うからって、いじめたりしてきたんだろ?すげー勝手じゃん。だからキミも、ちょっとくらい勝手したっていいじゃん。こんなものなきゃよかったのにって恨みごと言うよりさ、むしろ利用してやればいいんじゃない?」 調子の良いことを言った自覚はあるけれど、紛れもない本音だった。 キリヤは楽しいことが好きだ。面白い人間も好きだ。色んな奴が色んなことをやるから面白くなると思ってる。だからこそ、性的嗜好や国籍、体格の違いで人を差別して「普通」や「平均」に均そうとする世間に辟易していた。 キリヤ自身は明るい性格と生まれ持ったいかつい顔のおかげか、いじめなどを受けることはなかったが、周りと違うヤツがちょっとでも弱みを見せた隙に食い潰されてしまう瞬間を、何度も見てきた。 この世はまともに生きようとするヤツが割りを食う。だったら、好き勝手生きないと損だ。 アゲハみたいに潰されてしまいそうなの本性を引き出してやりたくなる。そういうヤツらが本領発揮すれば、普通がかき乱されて、キリヤの思う混沌とした世界になると思っているから。 アゲハはキリヤの言葉に何も答えなかったけれど、何かを考えるような表情で、タバコの痕や焼きつきで汚れたアスファルトをじっと見つめていた。

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