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アゲハ-1

アゲハは幼い頃、母親や義理の父から日常的に虐待を受けていた。精神的なものも、暴力もどちらも。 寝床と食事は与えられたものの、ロクに外に出してもらうこともない。 唯一行っていた学校でも、といじめを受ける。 そもそも、食事といっても、惣菜パンや出来合いの弁当のようなものばかり。 アゲハが中学に上がる頃には、毎日朝起きると1000円札が机の上に置かれていただけだった。 ロクに帰ってこない両親。帰ってきても、仕事などのストレスを発散するように暴言を吐かれたり暴力を振るわれたりするだけ。家族との触れ合いは、それだけだった。 アゲハが夜の世界に入り浸るようになるのに時間はかからなかった。 中学生活も終わりに近づいた頃。あてもなく夜の新宿をぶらついていたアゲハは、たむろしていた同い年くらいの不良グループに声をかけられた。暇なら着いてこいよ、と。断る理由はなかったし、暇つぶしにちょうどいいと思って彼らに着いて行った。 彼らがするのはなんてことない、子供の悪ふざけだった。道端にたむろして大声で駄弁ったり、壁に落書きしたりと、意味も信念もないイタズラ。 アゲハはあまり一緒になって遊んだりはしなかったものの、彼らを止めようともしなかった。馴染めていたかと言うとそういうわけでもなかったけれど、自分に悪意も興味も向けられないその環境は比較的穏やかに過ごせる場所だった。 虚しさから逃げるにはちょうどよかった。 ある日、空き家に忍び込んでたむろしていると、そこの所有主に目をつけられてボコボコにされた。 泣きながら逃げ帰っていく不良たちをよそに、アゲハは黙りこくって座り込んでいた。別に、彼らとは友達でも仲間でもなんでもなかったから、一緒になって逃げる理由はなかった。 「お前は帰んなくていいのか?」 リーダーらしき男がそう訊いてきた。 「…帰ったって、ロクなことないし」 聞こえるか聞こえないかわからない程度の声量でアゲハが呟く。 「──いっそ、殺してくれたらよかったのに」 アゲハは真っ直ぐと男の目を見てそう言った。憎らしい、とまで思った。男は目を見開いてから、にやっと不敵に笑った。 「坊主、名前は」 「…アゲハ」 「アゲハか。艶のある名前だな」 男はしゃがみ込んでアゲハと目を合わせる。 「俺はアスカ。風俗店とかバーのオーナーやってんだけど…一緒に来るか?──早く死ねるかもしれないぞ」 アゲハは目を見開いてから、「わかった」と掠れる声で答えた。どこでもいいから、別のところに行きたかった。そこが死に近い場所だとしても、生きてるのが死んでるのがわからない今より、よっぽどマシだ。 「名前はどうする?」 アスカが運転する車の中で、そう訊かれた。アゲハは眉を寄せる。 「どういうこと?」 「源氏名って言ってな。夜の世界では、みんな本名じゃなくて仮の名前を名乗るんだ」 そう、アスカが教えてくれた。この日から、アゲハはあらゆることをアスカに教わってきた。まともなことも、そうじゃないことも。…そうじゃないことの方が圧倒的に多い気がするけど。 「…アスカってのも、本名じゃないの?」 「そうだ」 あっさりとアスカが告げる。アスカは30台半ばくらいだろうか。アゲハの義理の父もそれくらいだったはずだ。けど、格が違うのは明らかだった。 洗練された佇まい。決して強面ではないのに、見つめられただけで飲み込まれてしまいそうな視線。陽の光の下ではなく、薄暗い照明が似合う。そんな雰囲気を纏っている。 「あと、俺のことはオーナーって呼べ。敬語で話せ。他の奴らもそうしてるからな」 「…わかりました」 威圧的な感じはない。けれど、普通に話しているだけで支配されていくような気がした。 「俺は、アゲハでいいです」 アスカがアゲハを一瞥してから、また前方に目を向ける。 「なんで?」 「何も思いつかないし、それに…俺には、本名がバレて困るような知り合いはいないから」 アゲハの投げやりな言葉に、アスカは「そうか」とだけ呟いた。 「まあ、アゲハなんて色っぽい名前、すでに源氏名みたいだもんな」 揶揄う調子で笑うアスカに、アゲハは無表情のまま何も答えなかった。 ☆ その日から、アゲハの日常が塗り替えられていった。 煌びやかで目が眩む街。その裏で繰り広げられる金と性、命のやりとり。誰にいつ裏切られて野垂れ死ぬかわからなかったけれど、あの狭い部屋に閉じ込められて死んだように生きる日々より、何倍もマシだった。 アゲハ自身、ほとんど家に帰ることはなくなっていた。ある夜、数日ぶりに帰ってみると、両親がアゲハを待っていた。 その表情に、心配の色はなかった。 ただ、不快そうに自分たちの子供を眺めている。 「お前、何日もほっつき歩いて何をしてるんだ?」 「毎日遊び歩いて…変な噂、立てられそう」 心配だからとかじゃない。自分たちの所有物が好き勝手にしていることに苛立っているだけだろう。 アゲハは何も答えようとしない。そんな態度に苛立ったように父親がアゲハに近寄ってきた。 殴りかかろうとする父親の拳を躱し、反対に殴ってやった。 その時期、アゲハは職場の仲間と体を鍛えたり、護身術を教えてもらったりしていた。 軽く反撃しただけのつもりだったのに、父親はいとも簡単に倒れてしまった。 呆気に取られた顔をする両親。ゆっくりと近寄ると、「悪かった」と平謝りされた。 恐怖で怯える目。震えるその体は、無力で愚かで──哀れだと感じた。 アゲハは何も答えることなく、彼らを無視して自分の寝床に向かった。 ☆ 「浅見(あざみ)」 次の日学校で、ホームルームが終わった後担任に声をかけられた。 「これ、親御さんから預かった。渡してくれって」 担任から渡されたのは古びたクラッチバッグだった。アゲハは怪訝な顔をしながらそれを受け取る。 「忘れ物か?」 「あ…はい」 心当たりはなかったが、探られても面倒なのでアゲハは曖昧にそう答えた。 担任は「そうか」と興味なさげに呟いて、それ以上は何も訊いてこなかった。 アゲハはトイレの個室に入り、中身を確かめる。 中には、通帳と暗証番号が書かれた紙、それからキャッシュカードが入れられていた。 何かが書かれた紙も一緒に入っていた。 『今住んでいるアパートは近いうちに引き払います。生活費はここに振り込みます。鍵はポストにでも入れておいてください。自由に生きてください。さよなら』 子供が書いたんじゃないかと思うくらいたどたどしい文字。 ハッと呆れるような笑い声が漏れた。 仮にも高校生の子供に通帳だけ渡して消える親ってなんだよ。──笑える。 怒りすら湧かなかった。お互い、疎ましい存在であったことに違いないから。昨日のことをきっかけに利用されたのだ。──アゲハを手放すきっかけに。 都合が良かった。こんな世界、俺から捨ててやりたいと思っていた。願ったり叶ったりだ。 心からそう思った。けれど、そう思ってしまうことは、ひどく虚しくはあった。 アゲハは、親が仕事に行っているであろう時間に一度家に戻り、荷物──荷物という荷物もほとんどなかったけれど──をその辺にあった大きめのリュックに詰める。アゲハの生きてきた証は、両手で抱えられる大きさしかなかった。 手放せないことが苦しかった。けれど、それはアゲハの人生全てだった。16年間、自分を作り上げてきたものがあっさりとなくなってしまい、ぽっかりと穴が空いたような気持ちになった。 鍵を閉め、ポストに鍵を放り込んで階段を降りていった。それから、あの家には一度も戻っていない。空いてしまった穴の代わりになるものを、アゲハは未だに探し続けている。

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