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アゲハ-3
パアンと乾いた音が外から聞こえて目を覚ました。
重たい瞼を開いて、気怠い体を起こす。
外からギャハハハと下品な声が聞こえてきた。若者がふざけて花火でもやっているのだろう。
アゲハは大きくため息をつく。
そこは、アゲハの本業──経営に携わってるセラピストの店の事務所だった。
書類仕事をしているうちに眠ってしまったらしい。また変な時間に寝てしまった、とため息を吐く。
…睡眠薬、そろそろ切れそうだったよな。帰りがけに買いに行くか。
面倒な用事が増えてしまい、憂鬱な気持ちのまま、やりかけの仕事に手をつけ始めた。
ここ1ヶ月半、趣味の活動をしていない。理由は単純だ。蘭から「スカリフィケーションの施術をしたから、少し休みが欲しい」と連絡があったから。
趣味でやっているブローカーの仕事は、一度に1人だけ世話すると決めている。誠実な気持ちからではない。一度に複数人の色恋管理ができるほど、アゲハは器用ではなかっただけだ。そもそも、アゲハが誠実な人間だったらこんなロクでもないことはしていない。
まあそういうわけだから、今世話をしている蘭からそう言われたら、仕事自体用意する必要がなくなるのだ。
そして、アゲハの体調が芳しくないのは、およそ1ヶ月半前──蘭と最後に会った日くらいからだ。
元々不眠の気はあって、睡眠薬を常用しているアゲハだったが、この頃は通常の量を飲んでいても眠れない日が続いている。
量を増やしたら眠りにつくことはできるが、代わりに日中の気怠さが酷くなる。にっちもさっちもいかないとはこのことだ。
アゲハは誰も聞いていないのにため息を吐いた。
蘭には、明らかに他の人間とは違うところがある。
例えば、アゲハが左腕に彫っているスカリフィケーション。
この傷を見た人間の反応は大きく二つに分かれる。
目を逸らすか、目を凝らすか。
大半は前者だ。水商売をやってる人間なんかは興味ありげに見てくることもあるけれど、そういう類ですら目を逸らしてくることも多い。
ましてや、昼間に生活している人間はこの傷が目に入るや否や、ほぼ逃げるように去っていく。
当然の反応だと思う。なんなら、そう言った普通の人間を避けるのにちょうどいいとすら思ってる。
だから、蘭の反応には興味を惹かれた。──惹かれてしまった。
ただの地味な若いコンビニ店員。それが第一印象だった。
特に気にするつもりもなかった。──彼からの熱い視線を感じるまでは。
彼は目を逸らすどころか、アゲハの左腕を凝視してきた。怖いもの見たさや好奇心という感じではなかった。純粋に、見たいと思っていそうな様子。どこか、恍惚としてるようにも見えた。
だから、つい声をかけてしまったのだ。色んな商品を世話してきたけれど、偶然出会った子を誘ったのはアゲハ自身も初めての経験だった。
野暮ったいメガネや髪型。芋っぽいという表現がよく似合っていた。だが、よく見ると整った顔をしていた。自覚はなさそうだが、相当上玉だ。
こういう仕事は、ちょっとネジの外れた人間じゃないと続けられない。しかも、素材がいいときた。
──掘り出し物が見つかった。それくらいに思っていた。
甘い考えを持っていた自分に辟易する。
魔性、という言葉が合っているかもしれない。人の懐に難なく入り込んで、「欲しい」という純粋な感情を迷いなく口にする。
無垢な色気。本人も気づいていないから、抑えるなんて発想もないのがタチが悪い。
アゲハは踏み込まれることを嫌っていた。核心に触れることを訊かれそうになったら、のらりくらりと躱すか、時にはハッキリと拒絶する。
なのに、蘭に甘えられるとどういうわけかアゲハの方から手を差し伸べてしまう。
我ながらそれは踏み込みすぎだ、と思うことまで彼にはしてしまっている。うっかり自宅に上げるなんて、今までの自分ならしなかったのに。
蘭がアゲハの本当に訊かれたくないことには触れない絶妙な距離の取り方も、つい心を開きかけてしまう原因なのかもしれない。
いつか、知られたくないことまで暴かれてしまいそうで──怖かった。
──そろそろ、潮時かもしれない。
また、うまいこと言って離れよう。いつもみたいに。なんなら、このままフェードアウトもありかもしれない。
そうしたら、また別の子を探して──
そう考えたところで、アゲハは自虐的に笑った。
潮時なんて言いながら、結局人の心を弄ぶことを辞めることはできない。かといって、その中の誰かと向き合う勇気もない。こんなことしたって、何も手に入らないことはわかっている。
けど、世話をしている間だけは、その瞬間だけは、その子の心は俺のものだから。
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