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夜に、堕ちる
アゲハはハッと目を覚ました。
はあはあ、と肩で大きく呼吸をする。冷や汗で体がべとついて不快だった。
恐る恐る見回すと、そこは知らない部屋だった。
薄暗い灯り。妖しい雰囲気。どうやらラブホテルのようだ。
アゲハは靴を脱がされてベッドに座っている。
「痛っ…!」
手首の痛みに顔を歪める。
恐る恐る首をもたげると、後ろ手に縛られた手首は、ベッドの柱に括り付けられていた。視界はぼんやりとして、ひどく体が重い。
うっかり、前の日に睡眠薬を多く飲んでしまったときの朝を思い出した。
ただただ困惑した。
なぜ俺はこんなところに?誰がこんなことを。なんで、こんなに吐きそうなくらい気持ちが悪いんだ。
アゲハはほとぼりが覚めるまで身を隠そうとしていた。
新宿から出るのは躊躇われたので、ビジネスホテルやインターネットカフェを点々とした。
本業関係の知り合いに呼び出されたのはその最中だ。
身勝手な理由で仕事を休んでいる手前、断るのは気が引けて会うことにしたのだった。
確か、指定されたバーで待っていたはず。…そうだ。そしたら、なぜかキリヤが現れて、それから──
「──起きた?」
振ってきた声と、ギシッと軋むベッドにびくっと体を震えさせる。
そう言いながら、アゲハの座るベッドの上に乗ってきたのは──蘭だった。
動悸がする。蘭、と乾いた声で呟く。けれど、それが声になっていたかはわからない。
「なんで、蘭が」
そう尋ねると、今度はちゃんと声になっていたのか、蘭が「だって」と答える。
「アゲハが、逃げるから」
艶っぽい笑みを浮かべる蘭に、ぞくっと背筋が凍る。思わず後ずさろうとするが、ベッドに括り付けられているのでそれも叶わない。
「連絡取れなくなっちゃったから、キリヤくんに協力してもらったの。アゲハは新宿から出たがらないから、近くにいるだろうって」
アゲハは思わずため息を吐く。合点がいってしまった。アゲハの仕事相手の名前を使って誘き寄せ、睡眠薬でも盛ったんだろう。人を引っ掻き回すのが好きなあいつがやりそうなことだ。
けど、今はキリヤのことはどうでも良かった。
「どうして、俺から逃げようとしたの?」
蘭がそう尋ねながら、アゲハの太ももに触れる。びくっと体が震えた。黒目がちの瞳がじっとアゲハを見据える。
誤魔化したところで全て見透かされてしまいそうに感じた。
アゲハは、動悸を抑えるように大きく息を吐いてから、口を開いた。
「…怖かった。蘭には、人を惹きつけて支配する力がある。それに飲まれそうで…怖かった」
「アゲハは、俺のものになるの…嫌なの?」
寂しそうな声で訊いてくる蘭をキッと睨む。
「そうやって支配して…飽きたり、俺が本気になったりしたら捨てるんだろ」
「それはアゲハがやってきたことでしょ?俺はアゲハを捨てたりなんかしないよ」
「…本当の俺を知ってもそんなこと言えんの?」
自分でも驚くぐらい低くて冷たい声だった。
「俺は弱いんだよ。毎日、ガキの頃や嫌な妄想の夢を見て眠れなくて、睡眠薬が手放せない。人に捨てられるのが怖くて、自分から捨てる。暴かれるのが怖くて、お前からも逃げた。……なんでだよ。なんで追いかけてきたんだよ」
アゲハが悲痛な思いを吐露する。いつの間にかぽろぽろと涙が溢れていた。
「蘭の中の俺には、強くいて欲しかったのに」
「誰が強いって?」
ぐいっと顎を掴まれて、目を見開いた。
「お前は、アゲハ蝶だろ?触れただけで壊れるくらい脆くて──美しいアゲハ蝶」
鋭い瞳。その中に漂う甘い視線にぞくっとする。
「気づいてないと思ってた?馬鹿だなぁ。俺が、どんだけアゲハのこと見てきたと思ってんの?…とっくに気づいてたよ。だからこそ──
──俺の知らないところで壊れるなんて耐えられない」
アゲハの頬に優しく手を添えて、蘭が妖艶に微笑んだ。
「俺ね、前も言ったけど…血とか傷が好きなんだ」
蘭がそう溢しながら、アゲハのシャツのボタンをゆっくりと外していく。
「面食いだとか、胸やお尻が好きとか…そういうのは普通なのに、なんで俺のはダメなんだろうって、いつも悲しくなってた。好きなものを好きって言いたいだけなのに、って。でも、普通の人から見たら気持ち悪いんだろうな、おかしいんだろうなってのは理解できたから、ずっと隠して生きてきた。
けど、アゲハは俺のおかしさを受け入れてくれた。体に刻まれたアゲハ蝶も、心の傷も、他人や自分を傷つけてしまう弱さも──ぜんぶ、綺麗だ」
ボタンを外し終えると、蘭がアゲハのシャツを脱がせて、うっとりとした表情で彼の胸と腕に刻まれたアゲハ蝶に触れた。
「俺、好きなものには貪欲みたいなんだ。もう止められない。アゲハが好きだ。…好きに、なっちゃったんだ」
目を見てまっすぐそう言われて、アゲハの目からぽろっと涙が溢れた。
言ってることはめちゃくちゃなのに、蘭の「アゲハが好き」という想いが痛いほど伝わってきて、胸をぎゅっと掴まれてしまった。
愛されないのが普通だと思ってた。いいように使われて憂さ晴らしされてきた。だから、今度は俺が支配してやろうと思った。自分に善がって縋られて、そうしている間だけは、アゲハは心を保っていられた。
けれど、みんな耐えられなくなったり、アゲハの弱さや脆さを感じ取って離れていった。
自分からアゲハの心に入り込んできて、アゲハが逃げても追いかけてきたのは蘭が初めてだった。
弱さに気づいていながら、それを好きだと言ってくれたのも。
蘭がおかしいのなんてわかってる。アゲハみたいに、こんなに弱くて脆いどうしようもない人間に惚れる奴がまともなわけがない。
けど、もう誤魔化せない。
あの日──初めて出会ったあの日。アゲハの弱さを隠すための威嚇としての、アゲハ蝶の形を模した傷に、釘付けになっていた蘭の視線。
熱っぽいあの視線に、アゲハは惹かれてしまっていたのだと、今更気づいた。
あどけなさを残す顔立ち。人の懐にするりと入っていく割に、嫌がるところは触れない塩梅。執着とも言えるようなまっすぐな欲望。
アゲハの心は、とっくに蘭に奪われていたのだ。
可愛らしいお花を摘んで売っている立場のつもりだった。
けれど、腕に刻みつけた痛みに目をつけられて、可愛らしい見た目に騙されたんだ。じわじわと美しい毒に羽を濡らされて、飛べなくなっていた哀れなアゲハ蝶──それが、アゲハだったのだ。
「…俺、蘭にひどいことしたのに。無理やり犯すような真似して…。俺、カッとなると自分が抑えられないときがあるんだ。…またひどいことしそうで、怖いよ」
情けない本音を吐露する。蘭はきょとんとしてから小さく吹き出した。
「それでもいいよ。ひどいことされたら離れるならさ、最初から離れてるよ。覚えてないの?最初っからやばかったよ。知らない女の人に襲わせるとかさぁ…その後都合のいいこと言って自分も抱くとか…嫉妬して襲うとかより、全然そっちのがやばい気がする」
耳を塞ぎたかった。
蘭にも、他の子たちにも、ひどいことを散々してきた。自分が酷い目にあったから他の奴らにもって、子供みたいな理由で。
しかも、人から焚き付けられたからと責任転嫁までして。
「…そんなやばいヤツ選ぶなんて、どうかしてるよ」
思わず零すと、蘭が呆れたように笑う。
「だから、俺おかしいって言ったじゃん。アゲハのせいみたいなことも言ったけど…まあ、それもなくはないだろうけどね。でも、俺って元からこうだよ。
傷とか血が綺麗だって思って、にやにやするような人間だよ?普通の人なんか好きになれるわけないじゃん。
…アゲハくらいおかしいヤツが、俺にはちょうどいいよ」
そう話す蘭の表情が妙に優しくて、どうしようもなく泣きそうだった。
「蘭」
アゲハの呼びかけに、蘭が優しく「なあに?」と答える。
「俺のこと、蘭のものにしてくれるの?」
「そのために捕まえにきたんだよ」
アゲハの首筋を蘭の指がなぞる。
「アゲハが死んでも…例え、地獄に堕ちても。俺も一緒に行くから」
そう言いながら蘭はアゲハの拘束を解く。
鬱血した手首を恍惚とした表情で眺めながら、アゲハの手を握ってくる。細くて綺麗な指だ。でも温かくて、無性に泣きそうになった。
「蘭はどこにも行かない?」
不安そうな声で訊きながら蘭の手をぎゅっと握り返すと、蘭がくすっと笑う。
「行かないよ。信用ない?」
「…怖いよ。俺、何回も捨てられてきたんだ。…蘭にまで捨てられたら、立ち直れない」
声を震わせるアゲハをじっと見つめてから、蘭は自分の服を脱ぎ始めた。
「ねえ、アゲハ見て」
向けられた背中を見て、アゲハは目を見開いた。
鈴蘭のスカリフィケーションの隣に、アゲハ蝶のタトゥーが彫られていた。赤い鈴蘭に誘われるように、舞っていた。──アゲハの胸のタトゥーと同じデザインだった。
「スズランと、それに誘われるアゲハ蝶──俺とアゲハみたいでしょ?このアゲハ蝶と同じように、アゲハのことも捕まえにきたんだから。だから…もし、万が一、俺がアゲハから離れるなんてことがあったら──
──アゲハが俺を殺して」
アゲハが息を呑む。蘭が振り向いてアゲハに向き直った。
「で、アゲハのせいでもそうじゃなくても、俺が死んだら…アゲハも一緒にくればいいじゃん。それなら、どう?」
蘭の提案に、弱々しく、それでいてどこかうっとりした表情でアゲハが微笑む。
「…わかった」
蘭はくすっと笑ってから、噛みつくようにキスをしてきた。
その拍子に、唇の端が切れる。すかさず、蘭がその傷を舐めとった。
痛みに顔を歪めるアゲハを、蘭が恍惚とした表情で見つめていた。
「…やっぱり、アゲハの血は綺麗だ」
舌に、アゲハの血が乗っている。はあ、とアゲハが興奮したように息を漏らす。自分の一部だったものが、蘭の体内にある。そう考えるだけで、頭がくらくらして蕩けそうな気持ちだった。
それと同時に、蘭が自分を受け入れてくれたんだとわかって、目の奥が熱くなった。
「…蘭。……らん…っ」
ぽろぽろ泣きながら震えるアゲハを蘭がぎゅっと抱きしめる。
「俺はずっとアゲハのそばにいる。だから──もう、俺から逃げないでね」
──魂になっても。そう、鈴蘭が囁いた。
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