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エピローグ-永い夜の始まり(アスカ)

働いている店の事務所の扉を開けると、オーナーのアスカが座り込んで作業をしていた。 アゲハに気づくと、彼は「もうちょっとで顔忘れるとこだったぞ」と揶揄う調子で笑った。 アゲハは神妙な面持ちで頭を下げる。 「突然休んだりして、すみませんでした」 「おう、休んだ分ちゃきちゃき働けよ」 アスカは振り返りもせずに言う。あまりにもあっさりとした態度のアスカに、アゲハは呆然とした。 「…それだけですか?」 「あ?」 思わず訊いてしまうアゲハに、アスカが視線を彼に向けながら眉を寄せる。 「いきなり勝手に休んで迷惑かけたのに」 「ま、お前ほとんど休日なしで働き詰めだったからいーんじゃねえの?貴重な休みもで使ってぼろぼろだったろ」 アスカはそう言うけれど、納得いかなかった。怒鳴られでもした方が、きっと受け入れられた。 趣味なんて…そんなの、俺が自分勝手な理由でやってただけなのに。どうして、俺のことなんか気遣ってくれるんだろう。 本当はわかっていた。こうやって周りの大人が自分を甘やかしてくれていたから、生きてこれたことを。 自分が情けなかった。こんな風に守られていたから立っていられたことに、気づかないふりをしていた自分が、不甲斐なくて仕方がない。 「…みんな、俺のこと甘やかしすぎですよ」 泣きそうな顔で言うアゲハをアスカが鼻で笑う。 「わかってんならいいんだよ」と彼は揶揄う調子で言った。いつもならむかつくであろうその言葉も、なんだか無性にほっとした。 △ 「オーナー」 明け方。事務処理を終えた後、2人同時に店を出る。鍵を閉めている時、アゲハがそう声をかけてきた。 「俺、あの趣味やめることにしました」 そう伝えられて、アスカは「そうか」とだけ呟いた。 「大丈夫なのか?」と訊くと、アゲハは少し照れ臭そうに笑った。 「大丈夫です。…だって──」 そこまで答えて、アゲハは黙りこくった。視線はこちらに向いていない。アスカは怪訝そうに眉を寄せてから、アゲハの視線を追った。 視線の先には──ハタチくらいの青年が立っていた。 ストレートの黒髪。中性的な顔立ち。少年と言えなくもないあどけなさを残す彼は、白い息を吐きながらくすっと悪戯っぽく笑った。 「──来ちゃった」 そんな可愛こぶった言い回しも、妙に似合っていた。羽織っている紺のダッフルコートが無邪気さを引き立てているのかもしれない。アゲハは彼の方に向かって駆け出していく。 「蘭…!なんでこんなところに」 「さっきまで、新宿で大学の同級生と飲んでたから。歩いてきちゃった。待ってたら会えるかな〜って」 無邪気に笑う彼に、アゲハが心配そうな顔をする。 「こんな寒いところで…言ってくれたらすぐ迎えに行ったのに」 「まだ10分くらいしか待ってないよ」 「10分くらいって…もう」 そう言いながらアゲハが自分のマフラーを外し、彼にかけてあげた。 「鼻の頭、赤くなってる」 彼の首元をもこもこに巻いた後、アゲハがくすっと笑う。 そう言われて、彼はアゲハに向かってはにかんだ。 「ふふ…あったかい。…アゲハの匂いする」 首を傾げて甘えるような声を出す彼に、アゲハが愛おしそうな目を向けながら抱きついた。 一連のやりとりを見て、アスカは驚いていた。アゲハが、こんな風に誰かと戯れている場面なんて初めて見た。そして、理解した。こいつが例の──スズランだと言うことを。 アゲハは話そうとしなかったが、ライたちから話は聞いていた。で世話をしている子…だったけれど、驚いたことにアゲハと良い仲になっているらしい。 アスカは2人のところまで歩いていく。近くで見ると、蘭と呼ばれた彼は左耳にアゲハと同じピアスを付けていた。 へぇ、と思わず溢す。お揃いとは、アゲハにしてはずいぶん浮かれているなと愉快な気分になった。 それにしても…とアスカは蘭を見つめる。 遠目から見て可愛らしい顔立ちをした美青年だと思っていたが、近くで見てもなかなか上玉である。 「ずいぶんと美男子だな」 そう声をかけてみると、アゲハがハッとして、アスカから見えないように蘭をさっと隠す。 「その人は?」ってひょっこり顔を出す蘭に「見ちゃダメ。取って食われるよ」とアゲハが彼を抱きしめる。アスカが眉を寄せる。 「…俺は妖怪かなんかか?」 「妖怪よりタチ悪いです」 じとっと自分を睨んでくるアゲハを無視して、アスカは蘭を覗き込んだ。 「俺はアスカ。こいつの働いてる女性向けセラピストの店のオーナーやってる」 「美須々蘭です」 「君は、アゲハとはどういう関係なんだ?」 もう分かりきっていることを訊くのもどうかと思ったが、まだアスカの中に俄かに信じがたい気持ちがあったのだ。 蘭はくすっと笑ってアゲハに腕を絡ませる。 「なんだと思います?」 蘭は挑発的な表情をこちらに向けながらアゲハに擦り寄る。 西洋の血が混じった妖しい美貌を持つ男と、あどけない顔立ちで無垢な色気を放つ美男子をじっと見据えて、アスカが眉を寄せる。 「…愛人?」 正直な感想を口にすると、蘭はきょとんとしてから吹き出した。 「ざんねん。…愛人じゃなくて──恋人、です」 そうはにかむ蘭に、隣で仏頂面だったアゲハが目を丸くしてから頬を綻ばせる。 その柔らかい表情にアスカはぽかんとする。 …こいつ、俺とかキャストの前でこんな風に笑ったことあるか? それどころか今までをしてた子にだって、きっとこんなふうに笑ったことはないんじゃなかろうか。 「まあ、それは置いとくとして…兄ちゃん、うちでキャストとして働かない?」 「ダメ」 自分から聞いておいて話題を変え、藪から棒に提案するアスカに、アゲハが即答する。アスカは眉を顰める。 「お前に訊いてねえよ」 「ダメなものはダメです」 一方で蘭は、ふうん、と相槌を打って考える仕草をしている。 「俺、タトゥーとか入ってますけど…大丈夫ですか?」 その一言に、アスカが眉を寄せる。 「マジか。…うちの店じゃそれはまずいな」 「そうそう。やめときましょ」 「ちなみにどれくらい?」 ここぞとばかりに調子のいい合いの手を打つアゲハをスルーして、アスカが蘭に尋ねる。 「どれくらい…数ですか?それなら、背中の右側にタトゥーがあって、左側にスカリフィケーションしてて…ふたつ?」 彼の言葉に目を丸くする。 「スカリって…アゲハに毒されたか」 蘭は答えない代わりに恍惚とした表情を浮かべる。 小さければシールで隠す手もあるが、聞く限り広範囲のようだから厳しいだろう。 アスカは肩を竦める。 「わかった。じゃあ、スタッフでいいや」 「いいやってなんですか。なんでオーナーがそんなこと決めるんですか?」 「お前口挟むな。話が進まねぇ」 「進ませたくないんです」 しつこく噛みついてくるアゲハに、アスカはわざとらしくため息を吐いた。 「キャストが嫌なのはわかるけど、スタッフはなんでダメなんだよ」 「…だって、蘭に惚れるヤツがいたら困るから。バイの子だっているんですよ」 アスカは呆れたように鼻で笑う。 「んなこと言ったらどこでも働けないだろ。この顔ならどこいたって男も女も寄ってくるよ」 アゲハがむう、と子供みたいに口を尖らせる。いつもと違う様子にアスカはバツが悪くなった。 調子が狂う。普段は背伸びした様子を見せるアゲハに危うさを感じていたものの、いざ年相応の振る舞いをされると戸惑う。いつもの張り付いたような笑みを忘れて、ころころと表情を変えるアゲハは愉快ではあるけれど。 この蘭ってヤツ…アゲハの鉄壁の心を破るとは、大した男だな。 中性的な甘いマスク。華奢な体。その内側に、どんな猛毒を孕んでいるのか。 ますます彼に興味を抱いた。 「で、どう?俺、結構本気だけど」 「今は他にバイトしてないんで、いいですよ」 食い下がってみると、けろっとそう答える蘭に、アゲハが慌て出した。 「蘭…」 困惑するアゲハに、蘭が笑いかける。 「俺、この世界合ってる気がするんだよね。でも、はやって欲しくないでしょ?ちょうどいいかなって」 「でも」と食い下がるアゲハに、蘭がくすっと笑って彼の首を触る。 「これは完全に下心だけどさ…アゲハと一緒にいれる時間増えるじゃん」 アゲハは目を丸くしてから、わずかに頬を染める。 「…それを言い出すのはずるいよ」 「ね、いいでしょ?アゲハ。俺、やってみたい」 甘えるようにするっとアゲハの首に腕を絡み付かせる。アゲハはその腕に触れながら不安そうな顔をした。 「…他の男に言い寄られてるところなんか見たくない」 「そんな人いるのかなぁ」 「蘭は自分の魅力を分かってない。そんな場面考えるだけで…気が狂いそうだ」 「妄想で妬いちゃうなんて…アゲハは可愛いね」 そう言いながら頭を撫でられると、アゲハはうっとりとした表情で蘭を見つめる。 「何かあったらすぐ俺に言うんだよ。…蘭に何かあったらなんて、考えたくもない」 「ふふ…わかったよ」 すっかり蚊帳の外に追い出されたアスカは腕を組みながらぼんやりと彼らを眺めていた。 ライなどから話を聞く限り、アゲハが彼の世話をしていたはずだ。それがどうだ。アゲハは蘭にぞっこんで、手綱を握っていそうなのは蘭の方だ。これじゃ、飼われているのはアゲハの方じゃないか。 ……て言うか、誰だこいつ。と、アゲハのあまりの変貌っぷりに呆然としていた。 「殺してくれればよかったのに」と真顔で告げてきた少年が、愛するものを見つけ生きようとしている。 きっと喜ばしいことなんだろう。けれど、側から見る限り、彼らはお互いに依存してる。特にアゲハは、誰かを好きになったことなんてなかっただろうから、歯止めが効かなくなってるのかもしれない。 ──この未熟な恋が、確かな愛に変わる日は来るのかね。 せいぜい観察させてもらうとしよう。…ほんの少し、そんな未来が来てほしい、と言う期待も込めて。

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