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第2話 白昼夢と現実

 紫季は、小さな頃、家族のことが大好きだった。  市内の高級住宅街の一角。白を基調とした可愛らしい一軒家は、色とりどりの草花に囲まれ、玄関前には青々と茂るオリーブの木が立っていた。人工芝の庭では、夏になると友達を招いてプール遊びやバーベキューをするのが楽しみだった。  「おはようございます。今日は暑くなるそうなので、熱中症にお気をつけくださいね」  朝のゴミ出しのとき、父はスーツ姿のまま、そんな気の利いた一言を爽やかに言ってのける。誰にでも分け隔てなく接し、自然と場を和ませる姿は、まさに営業マンの鑑だった。  彼が通り過ぎたあとには、目を細めて見送るご近所の奥様方の姿があった。休みの日には紫季を連れて公園へ出かけ、キャッチボールやサッカーに興じる父の姿は、近所でも評判だった。  母はお菓子作りが趣味で、紫季の友達の誕生日会には、手作りの焼き菓子やケーキを持たせてくれた。  「まるでお店のみたい」「ほんとに美味しい」と評判だったが、それ以上に話題になるのは、母自身の容姿だった。  象牙のように白い肌に、陽の光を受けると透けるような柔らかな髪。ぱっちりとしたヘーゼルの瞳に、小ぶりな唇。小柄で華奢なその姿は、まるで精巧に作られた西洋人形のようだった。  「スキンケアは何を?」「オーガニックしか食べさせてないのかしら」  そんな話題が、奥様たちの井戸端会議で飛び交うのは日常だった。  そんな両親の間に生まれた紫季は、二人の良いところを受け継ぎ、愛らしい見た目と人懐っこい性格で周囲を魅了していた。  「まぁ、なんて可愛い子!」と、通りすがりの人に声をかけられ、抱き上げられることもしばしばだった。  親戚の集まりでは「将来はモデルさんね」とよく言われ、自分でもその未来をどこかで信じていた。  蝶よ花よと育てられ、満ち足りた日々。  週末には家族で遠出をし、たまには海外旅行も。帰国後には、ご近所さんへお土産を配り歩く。  そんなわが家は、誰の目にも“理想の家族”に映っていたはずだ。  幸せな日常。  その穏やかな日々が、少しずつ崩れ始めたのは――  紫季が、小学三年の秋のことだった。  食品商社で働く父は、海外出張が多く、世界中を飛び回っていた。中には一ヶ月にも及ぶ長期出張もあり、家を空けることは珍しくなかった。  寂しくないと言えば嘘になるけれど、向かいに住む幼馴染・凛太朗の父も医者で、やはり家にいる時間は少なかった。お互い、少しだけ寂しさを抱えながら、ほとんど毎日一緒に遊んでいた。  「今、パパはタイにいるんだ。その後はマレーシアに行くから、まだ帰ってこないんだって」  紫季は、凛太朗の部屋にある地球儀をくるくると回しながらタイを探す。  「うちの父さんは今日も当直」  「ふーん。大人って忙しいな。……あ、あった。タイ。けっこう近い感じ」  凛太朗が隣から手を伸ばし、紫季の指の先から地球儀を回転させた。  「マレーシアはここ」  即座に指を置かれて、紫季は小さくむくれた。  (なんですぐにわかるんだよ)  ぶすっとした顔で、地球儀を全力で回転させてやった。  そんなある日、ついに父に海外赴任の辞令が出た。赴任先はドイツ。  当初は家族で一緒に行く話もあったが、最終的に父は単身で向かうことに決まった。  父がドイツに渡ってからも、最初のうちはこれまで通り平穏な日々が続いていた。  時差があるため頻繁にはできなかったが、何度かテレビ電話で顔を見られたのは嬉しかった。  「ママ、紫季、元気にしてる?」  「元気だよ! パパは? 明日は運動会なんだ。クラス対抗リレーにも出るんだよ。ね、ママ!……ママ?」  「……あっ、うん。すごいね」  選ばれた子が数人しかいないリレーメンバー。紫季は胸を張って報告したのに、母の返事はどこか上の空だった。  「ママ、大丈夫? なんか心配ごとある?」  「ううん、大丈夫。ちょっと頭が痛いだけ。明日はたくさん写真を撮って、パパにも送ってあげようね」  その頃から、母の様子に少しずつ変化が見え始めた。  日中、何をするでもなく、ただ窓の外を見つめる時間が増えた。  家の中も、どこか空気が静まり返っていた。  リビングに漂う焼き菓子の甘い香りも、だんだんと消えていった。  父の仕事が軌道に乗るにつれて、彼はドイツからさらに他国に派遣されることも多くなった。  テレビ電話の回数は減っていき、紫季はそのことに少し寂しさを覚えていたが、なぜか母に「パパと話したい」と言えなくなっていた。  ある晩、夜中にトイレで目を覚ました紫季は、隣にいるはずの母が布団にいないことに気づいた。  まだぼんやりする頭で、二階の部屋を一つひとつ探していく。  子ども部屋、客間、トイレ。どこにも母の姿はない。  不安が胸に広がり、眠気がすっかり吹き飛んでいく。  「ママ……? どこ?」  小さく震える声で、呼びかけながら歩いた廊下の先――最後に開けたのは、父の書斎の扉だった。  部屋の明かりは点いていなかったが、薄明かりの中で、椅子に座る母の背中が見えた。  その肩は小刻みに揺れ、かすれた声で電話の向こうに語りかけていた。  「……もう、限界なのよ」  その一言を聞いた瞬間、紫季は声をかけられず、ただその場に立ち尽くした。  母の姿は、いつも見ていた“優しい笑顔のママ”ではなかった。  窓の外の夜の闇に、すべてを投げ出すように沈んで見えた。

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