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第3話 白昼夢と現実

「紫季、今日ママは夜ご飯、友達と食べてくるから」  そう言うと、母はコンビニで夕飯を買うようにと千円札を机に置いて、さっさと出かけて行った。 そんな日が、何日も続いた。  紫季の家がある住宅街は、新築の家もあるが、昔から住んでいる家庭も多い。どこか独特の雰囲気があり、変に結束力が強い地域だった。  交通の便も良く、買い物にも困らない。土地代も高く、住んでいるのは裕福な家庭ばかり。 奥様方の多くは専業主婦で、時間を持て余していた。  だから、近所の噂話は光の速さで広がる。  最初は、近所の人たちも「一人でおつかい? えらいねぇ」と紫季を褒めてくれた。  けれど、母がめかしこんで夜に出かけることが増え、紫季がコンビニで夕飯を買う頻度があまりに多くなると──賞賛はやがて、母への非難に変わっていった。  庭の花壇は、もう手入れがされなくなって久しい。雑草が元気に背を伸ばし、見る影もない。  日中でもカーテンは閉まったまま。高級住宅街の中で、紫季の家だけが浮いていた。  その頃、母は近所付き合いを避けるようになり、ひっそりと暮らしていた。  紫季は、家がこれ以上悪く言われないようにと、懸命に振る舞った。  笑顔であいさつを欠かさず、お年寄りが困っていれば手伝った。 人から好奇の目で見られたことがなかった紫季は、以前のような生活に戻りたい一心だった。 ──母に褒められたい、という気持ちも、きっと少しあったのかもしれない。  けれど、いくら努力しても、母はどんどん家事を放棄し、紫季のことも気にかけなくなっていった。 洗濯物はたまり、食事も作られない。そもそも、家にいない日すら増えていった。 ──相変わらず、お金だけは置いてあったけれど。  ある日、突然インターホンが鳴った。 紫季はドキッとした。最近は新聞の勧誘ぐらいしか来ておらず、友達ともほとんど連絡を取っていなかったからだ。  そっと通話ボタンを押すと、カメラ越しに映ったのは、向かいの家に住む凛太朗と、彼の母親だった。 「紫季くん、大丈夫? ご飯、ちゃんと食べてる? お母さんは?」  近所の噂を聞きつけて、心配してくれたのだろう。  紫季は玄関をそっと開けて、声を震わせながら答えた。 「……だいじょうぶです。ママ、ちょっとしんどいだけだから」  (嘘じゃない。今、ママ寝てるし……) 「そう。じゃあ、困ったことがあったら、いつでも言ってね」 「そうだぞ! 俺ヒマだから、また遊ぼうぜ。お父さんが妖怪のカルタ買ってくれたんだ! 紫季、妖怪好きだろ? 一緒にやろうぜ!」  なぜだか胸がいっぱいになり、紫季は息が詰まりそうになった。  涙が溢れそうになるのをぐっと堪えて、「うん。やりたい。また行くね」と言って、家に戻った。  玄関に入った瞬間、堪えていた涙がとめどなく溢れてきた。  近所の人たちは好き勝手に噂をするだけで、誰も助けてはくれなかった。  久しぶりに優しい言葉をかけてもらって、張りつめていた糸がぷつんと切れた。  玄関には母の靴が散乱し、トイレには水垢。洗面所には洗濯物が山積みで、部屋中がホコリまみれ。  キッチンはゴミと食器で埋もれていた。  紫季もできることはしている。けれど、今まで家事をしたことはなく、いきなりやろうとしてもやり方がわからない。  見よう見まねでなんとか生活しているが、家の中は荒れていく一方。勉強も手につかなかった。  母は昼間からお酒を飲み、ぐっすり眠っている。 ──どうしたらいいかわからない。  やっと、紫季は「困っている」ということに気づいた。  それほど必死で、無我夢中で、生きていた。  紫季は、涙が枯れるまで、思いのままに泣いた。  (パパ……お願い……助けて……)  縋る先は、父しかいなかった。  母は酔って眠ると、なかなか起きない。 そっとカバンから携帯を取り出し、暗証番号を入力する。 (お願い、起きないで……)  ロックは、紫季の誕生日だった。だから簡単に解除できた。  日本時間の十六時。ドイツは朝の九時。 確実に父は仕事中だとわかっていたが、それでも電話をかけた。 (お願い、パパ、出て……!)  紫季は祈るように携帯を握りしめ、無機質な発信音をじっと聞いていた。心臓が破裂しそうだった。 “プルルル……プルルル……プルッ” (出た!) 「はい。やよい? 久しぶりだな。こんな時間にどうしたんだ?」 やよい──それは母の名前だ。  奇跡的に電話が繋がり、久しぶりに聞く父の声に、紫季は嬉しいのに、話したいのに、すっと言葉が出てこなかった。 「……っ」 「……やよい? どうした?」 「パパっ……」  ドクンドクンと鳴る心臓を押さえ、ようやく出た言葉とともに、涙があふれた。 「紫季? 紫季なのか? ママは?」 「パパ、あのね……助けて……」  紫季は、母の様子と、今困っていることを一つずつ話していった。 父はずっと黙って聞いてくれた。時折、「うん」「そうか」と、相槌を打ちながら。 そして最後に── 「教えてくれて、ありがとう。よく頑張ってるね。偉いぞ、紫季」  そう言って、電話は切れた。 ──二日後。  父は緊急の一時帰国を申請して、日本へ戻ってきた。  ドイツへ旅立ってから、およそ一年。 すべての季節が巡った。  秋の長雨が、どこか不吉な予感を、紫季の心に落としていた。

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