4 / 46

第4話 心の傷あと

父が帰ってきてから、家の中の景色はあっという間に変わった。  三週間の一時帰国。その間に父は、紫季を父方の祖父母の家へ預けた。そして戻ってきた時には、すべてが終わっていた。  大きなミニバンだった車はセダンに変わり、荒れたままだった庭は花壇が撤去され、雑草一つない綺麗な化粧砂利が敷かれていた。  前より少し殺風景に感じたけれど、玄関先のシンボルツリーのオリーブが静かに揺れて、落ち着いた雰囲気をつくっていた。  シンプルだけれど、ちゃんと整った家。その整い方は、どこか“何かがなくなった”ことを感じさせた。  ──母と、母の痕跡が消えていた。  「紫季、おじいちゃんとおばあちゃんと楽しく過ごせたか?」  「うん。楽しかった。お祭りがあってね、秋祭り。出店もいっぱい出てて、りんご飴も食べたんだ」  「そうか、それはよかったな」  父はそう言って、くしゃっと紫季の髪を撫でた。  その手の感触は懐かしく、けれど、どこか力が弱かった。  普段と変わらぬ様子を装う父。けれど、よく見ると、いつもきちんと整えられていた髪は少し乱れ、こめかみには白いものが混じり始めていた。  頬はこけ、目の下には深くクマが浮かび、声にはどこか張りがなかった。  無理もない。  父は、紫季がいない間に──母と、離婚していた。  「少し話そう」  父にそう言われて、紫季はダイニングの椅子に腰かけた。  「紫季、今まで本当にごめん。辛かったろ? 気づいてあげられなくて、ごめんな」  いつも陽気に世界の話をしてくれた父とは思えない、やつれた姿。  青白い頬には、剃り残した髭。口元はずっと、悲しみに縫われたように固く閉じていた。  紫季は、不意に胸がきゅっと苦しくなった。  自分が“とんでもないことをしてしまった”ような気がして、怖くなった。  「……うん。大丈夫だよ。ママ、お金はちゃんと置いていってくれたし、ごはんもちゃんと食べてた。それに、凛太朗もいたから、全然さみしくなかったよ」  父がこれ以上傷つかないように。  自分は平気なんだと、必死に言葉を選んだ。  「……違うんだよ、紫季。お金を置いていけばいいってもんじゃない。親には、ちゃんと子どもを育てる責任がある。……ママは、その責任を放棄した。……してはいけないことをしたんだ。……庇わなくていい」  その言葉に、小さな針が胸に刺さる。  ──庇ってるんじゃない。  ただ、紫季は今でも、母のことが好きなだけだった。  「ただな……」  父はぽつりと呟き、視線を落とした。  小さく息をつき、何度か口元を動かしては、言葉にならないまま止まる。  「……ママだけが悪いわけじゃないんだ。もしかしたら、あのとき、家族みんなでドイツへ行っていれば、違ったかもしれない。……話し合って決めたはずだったけど……寂しがり屋だったママを、一人にしてしまったのは、パパなんだ。だから、ママの心は壊れてしまったんだと思う。……自分のことで精一杯になって、紫季のことまで、手が回らなくなった」  その声は、悔いと優しさと、自分自身への怒りが入り混じっていた。  父は、紫季をただの子どもとして扱わなかった。  小学生の自分にもわかるよう、誠実に、ゆっくりと言葉を選んでいた。  そして、祖父母の家で過ごした間に何があったのか、そしてこれからの生活について話してくれた。  「……ママは、さみしさに耐えられなくなって、パパと紫季じゃなくて、別の人を選んだ。……本当に悲しいことだけど、こればっかりはどうにもならない。だから、もう一緒には暮らせないんだ」  その言葉を聞いた瞬間。  紫季のヘーゼルの瞳から、スッと涙が落ちた。  「……!」  父がバッと椅子を蹴るようにして立ち上がった。  ガタン、と倒れた椅子。机の角にぶつかって「痛っ」と小さく声が漏れたけど、父は気にも留めず、紫季を強く抱きしめた。  「……ごめんな。紫季……本当に、ほんとうにごめん……」  紫季は、何も言えなかった。  ──母が、他の誰かを選んだ。  ──父と紫季を、置いていった。  それ以外、何も頭に入ってこなかった。  (なんで……どうして……?)  その言葉だけが、ずっと頭の中をぐるぐるとまわっていた。  その後も、父はこれからの話を続けていた。  ──今日から一週間は、父とふたりでこの家に過ごせること。  ──そのあと、ドイツに戻って一ヶ月で引き継ぎを終え、本帰国すること。  ──その間、祖父母が来てくれること。  どの話も、まるで遠い国の天気予報のようだった。  紫季の中では、ただ一つの言葉だけが響いていた。  「ママは、紫季を選ばなかった」  

ともだちにシェアしよう!