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第5話 心の傷あと

 祖父母と過ごしているうちに、父はドイツから本帰国した。  しばらくの間は、日本での引き継ぎや新生活の立ち上げで、父の携帯電話はしょっちゅう鳴り響いていた。   時折、流暢にドイツ語で話す父の姿に、紫季の胸はきゅっと縮んだ。  祖父母との暮らしは穏やかで、何も心配のいらない毎日だった。  洗濯物が溜まることもない。  ご飯は三食きっちり、豪華なおかずと温かい味噌汁が並ぶ。  部屋はきちんと片づけられ、掃除の行き届いた家の中には、淡く優しい香りが漂っている。  音読カードにサインを自分で書くこともなく、ゴミ出しの曜日も、もう気にしなくていい。  ――何も困ることはないのに、心のどこかが、ずっと冷たかった。  母とふたりで暮らした一年の記憶は、紫季の胸の奥に静かに沈んでいた。  忘れたわけじゃない。  思い出すのが、ただ、少し怖かった。  お腹が空いた時、冷蔵庫にはチューブのわさびと期限切れの納豆しかなかったこと。  雨が降ってきた日に、干しっぱなしの洗濯物を一人で取り込んだこと。  暗い部屋で、カーテン越しの外の光だけを頼りに宿題をしていたこと。  あの頃は、それが「日常」だった。  誰かに訴えることもできず、自分さえ我慢すれば、いつか元通りになると信じていた。  でも、それは戻ってこなかった。  「ママは、違う人と一緒にいることを選んだ」――父の言葉が、今も耳の奥で響いている。  (もう、戻らないんだ……)  誰も責めてはいけない、誰も悪くない。そう言い聞かせながら、紫季は時々、自分の存在が母を苦しめたのではないかと、ふと考えてしまう。  それが間違っていると分かっていても、そう思ってしまう瞬間が、確かにあるのだった。  そんな紫季を見かねて、父はなるべく紫季と過ごせるよう、仕事を調整してくれていたらしい。  平日の夜は一緒にご飯を食べ、休日は色々な場所に連れて行ってくれた。  水族館、遊園地、ショッピングモール――  時間がない日には、近くの公園でキャッチボールやサッカーをして、夕暮れまで遊んだ。  そうしているうちに、近所の子どもたちも集まり始め、鬼ごっこやサッカーで毎週のように賑わうようになった。    中でも凛太朗は、紫季たちの姿を見つけると、必ず公園に来てくれた。 「凛太朗くんが、また紫季と一緒に遊んでくれてすごく嬉しいよ」  父がそう声をかけると、 「当たり前だろ?俺と紫季は幼馴染で親友なんだから!今はクラスも一緒だし、朝の登校班も一緒!紫季のお父さんより一緒にいる時間長いんだからなっ!」  凛太朗は、何故かちょっと誇らしげに胸を張っていて――  紫季は照れくさくて、でも嬉しくて、思わず顔を真っ赤に染めて俯いた。 「ほらっ、サッカーしよ」  声が少しだけうわずったまま、ボールを蹴って走っていく。  (凛太朗……親友って言った……僕のこと、親友って……)  心の奥に、ほんのりとあたたかい灯がともった気がした。  父がドイツに駐在していた1年間、紫季はほとんど凛太朗と遊んでいなかった。  母の様子が気になって、誘われても断ってばかりだった。  (遊んでる場合じゃない、って……あの頃は、そう思ってたんだ)  ただ、凛太朗の言葉に、少しずつ――  紫季の中の「日常」が塗り替えられていくのを感じていた。紫季が少しずつ、母のいない暮らしにも慣れ、友達ともまた以前のように笑って過ごせるようになった頃。  祖父母は、自宅へ戻ることになった。  「紫季ちゃん、また来るからね。今度は、ばぁばたちの家にも遊びにおいで」  タクシーの窓からそう声をかける祖母は、名残惜しそうに紫季たちを見つめた。  「じゃあ、あなたもしっかりね」  祖母は父にそうひと言だけ残し、タクシーは静かに走り出した。    祖父母の姿が見えなくなった後、家の中は、ふっと静まり返った。  大人二人とその荷物がなくなっただけで、家はこんなにも広く、少し冷たく感じる。  元々シンプルな内装だったが、今は生活感が薄れ、少しだけ空虚に映った。    「紫季、おいで」  ソファから手を伸ばした父に呼ばれて、紫季はその隣に腰を下ろした。  肩をそっと抱かれたそのぬくもりが、なんとなく嬉しくて、安心する。  「紫季、ばぁばたちがいなくなって、寂しい?」  「うん……やっぱりちょっとね。でも、パパがいるから平気だよ」  それは、紫季の本音だった。  祖父母がいる安心感も確かにあったけれど、それ以上に、父が真剣に紫季と向き合ってくれている──そのことが、心強かった。    「そう言ってくれて嬉しい。……でも、パパはやっぱり紫季のことが心配なんだ」  「これからも、できるだけ早く仕事から帰るようにするつもりだよ。だけど、どうしても難しい日もある。しばらくは断ってるけど……出張や、海外赴任の話が出てくるかもしれない」    ──海外赴任。  その言葉に、紫季の胸の奥で何かがふいにざわめいた。  父の言葉はまだ続いていたが、うまく聞き取れなくなる。  急に息が浅くなって、胸の奥がそっと冷たくなる。    「紫季、こっちを見て」  父の両手が紫季の顔をそっと包み、目を合わせてくれる。  「今すぐ、って話じゃないよ。国内の出張はあるかもしれないけど、海外は紫季が中学生になるまでは断ってある。だから、怖がらなくていい。パパは紫季を、どこにも置いて行ったりしないから」  父の真剣なまなざしと、ぎゅっと握られたその手に、紫季の気持ちは少しだけほぐれていった。    「紫季、そこで……ちょっと提案なんだけど」  そう言って父は封筒を取り出し、中の紙を一枚差し出してきた。  「……たなか、けんじ……?」  「うん。田中くんっていう大学生でね。月・水・金の夕方に来てもらおうと思ってるんだ。家政婦というより、ハウスキーパーって感じかな」    突然の提案に、紫季はぽかんとした。  (ハウスキーパー……? 凛太朗の家にも家政婦さんが来てるけど……男の人ってアリなの……?)  凛太朗のお父さんはお医者さんだし、他の友達の家も社長さんだった。  その記憶がちらついて、紫季は自分の生活にそんな人が入ることが、なんだか不思議に思えた。    「なんで?って思ってるよね」  父が笑って、続ける。  「実はね、紫季には男の人のほうがいいかなって思ってさ。田中くんは大学2年生で元気だし、紫季と一緒に遊べると思う。家事もしてくれるし、流行りのゲームとかにも詳しいんだって。夕方に、紫季がひとりにならないように、っていうのが一番の理由なんだ。……どうかな?」    父は少し不安そうに紫季の顔を覗き込んできた。  「もちろん、紫季がイヤならやめてもいいからね」  紫季は少し戸惑いながらも、父の気遣いが心にじんわり染みて、うなずいた。  「うん。ありがとう、パパ。……うれしいよ」  「そうか!じゃあ、来週からお願いできるように手配しておくね」    ──それが、家政夫・田中健二との出会いだった。

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