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第6話 混沌の境地

「紫季くん、こんにちは!」  インターホンが鳴って、モニターに映ったのは見慣れた笑顔。 「今あけるねっ!」  紫季はぱたぱたと玄関まで走っていき、勢いよく扉を開けた。 「健二くん!!今日は絶対勝つからなっ!」 「おっと、ちょっと待った。僕はまずお仕事!ゲームは休憩時間に、って約束だったでしょ?」 「ええ〜っ、もう〜、今日だけ先にやろうよ〜」 「だーめ。1回戦だけなら、ね?終わったらちゃんとお兄ちゃんは仕事に戻るから。これ、大事なルールです」  そんなやりとりも、もうすっかりおなじみになった。  父の心配をよそに、紫季は健二にあっという間に懐いた。  健二が来る日は、チャイムの音を聞いた瞬間、教室を飛び出して誰よりも早く昇降口に向かう。友達の誘いもそっちのけで、一人猛ダッシュで家に帰るのが日課になっていた。  ランドセルを放り出して、宿題も時間割もピャッと片づけて、音読だけを残してスタンバイ完了。おやつ片手に、ソワソワしながら健二の登場を待っている。  “やること終わらせてから遊ぶ”  それがパパとの約束であり、紫季なりの戦略でもあった。    健二が来ない火曜日と木曜日は、凛太朗と遊ぶ日。  6時間目が終わると自然に並んで下校し、そのまま凛太朗の家で宿題をするのがお決まりの流れだった。 「今日はどっちが早く終わるか、勝負な!」 「……小数の筆算、20問プリントだろ?絶対凛太朗の方が早いじゃん…」  紫季はぶつぶつ言いながらも、筆箱を開く手はやる気満々。 (っていうか、クラスで一番賢いやつが勝負挑むなよ……)  ため息をひとつついて、紫季は宿題に向かった。 (さっさと終わらせて、あの恐竜図鑑もう一回読みたい…)  二人は教室とは比べものにならない集中力で、黙々と問題を解いていく。  紫季は自分を凡人と思っているが、実は凛太朗に次ぐ成績優秀者。ふたりはクラスの中でもダントツで、“雲の上のふたり”なんて密かに呼ばれているのだった。    ──6月。  参観日の振替で月曜日がまるっとお休みになった。  紫季は嬉しさ半分、暇さに半泣き状態だった。  雨のせいで外には行けず、友達とも会えず、家の中でひとりぽつん。ゲームは「1日1時間まで」とパパと取り決めたため、健二が来たときにやるために温存中。 (図書館は月曜休館だし、本ももう全部読んじゃったし……ひまぁ……)  ソファでゴロゴロしていると、不意にインターホンが鳴った。 (……誰?)  健二が来るのは夕方のはずだし、急な来客なんて聞いてない。  モニターをのぞくと、そこには傘をさした凛太朗が、でっかいカバンを持って立っていた。 (りんたろー!!)  紫季の顔がパッと明るくなった。 「凛太朗?どうしたの?」 紫季は玄関の扉を勢いよく開けた。 「紫季、暇してると思ってさ!昨日、父さんが本屋で買ってきてくれたんだ。俺たちが読みたがってたあのシリーズ、全巻!しかもカップケーキもあるぞ。山田さんの手作り!」 紫季の目がぱっと輝く。 「やば!凛太朗、早く入って!」 ふたりは靴を脱ぐのももどかしく家の中へ駆け込み、興奮気味にリビングへ直行した。  凛太朗が持ってきたのは、イギリスの児童向け推理小説。最近ミステリーに夢中な2人は、お菓子の存在も忘れてページをめくる手を止めなかった。 ⸻  “ピンポーン”  インターホンの音に、ふたりはハッと顔をあげた。  時計を見ると、午後3時50分。紫季が小さく声をあげた。 「やば、健二くん来た!」 「健二くん?ああ、あの……家政夫って言ってた?」 「そう!月水金で来てくれてんの」 「君付けって……若いの?ていうか男?」 凛太朗が口を挟むが、紫季はもう玄関へ走り出していた。 ⸻ 「凛太朗くん、こんにちは。家政夫の田中健二です。よろしくね」  そう言って紫季をおんぶしたままリビングに入ってきた健二は、背が高くて、柔らかい雰囲気をまとった大学生のような男性だった。少しウェーブのかかった明るい髪、垂れ目がちの瞳、優しげな笑顔。まるで大型犬のような雰囲気だった。 「凛太朗、まだいるよな? 僕、もうちょっとだけ一緒に読みたいんだけど。ダメかな?」 「別に俺はいいけど……」  ふたりは顔を見合わせ、ちらりと健二を見た。 「……えーっと、お友達が来てる時のことは、お父さんからまだ聞いてないんだ。とりあえず今日はこのへんで終わりにしよっか」 「えー、やだー!」 「じゃあさ、これ1冊貸すから。絶対きれいに使えよ? そんで、感想も教えろよな」 「ほんと!? 凛太朗、ありがと!」  紫季は凛太朗に勢いよく抱きついた。 ⸻ 「じゃあ、僕はそろそろ仕事に戻るね。凛太朗くん、またね」  健二はにこやかに微笑んで、凛太朗を玄関まで送っていった。  「じゃあまた」と言い残し、ドアを閉める。 ⸻  玄関のドアが閉まる音が、静かに響いた。  紫季は、ふと凛太朗の表情を思い出した。  あの去り際――なぜだろう。あんな顔、初めて見た。 (……なんで、あんなに心配そうな顔してたんだろう)  紫季は玄関の方をじっと見つめた。  雨のせいか、空は薄暗く、凛太朗の顔はよく見えなかった。  けれど、あの目だけは――何かを伝えようとしていた気がする。 健二がリビングに戻ってくると、紫季はソファで本を抱えていた。 「……おかえり、健二くん」 「ただいま。ふふ、なんかいいね、それ。待っててくれたの?」 「べつに、そーいうわけじゃないし」  紫季はそう言いながらも、抱えていた本を膝に下ろし、健二をちらりと見上げた。 「ほんとに、もうちょっと一緒に読みたかったのに」 「そっか……でも紫季くんと凛太朗くん、すごく仲いいんだね。楽しそうだったよ」 「当たり前じゃん。凛太朗、幼稚園からずっと一緒なんだよ。全部知ってるし、全部話せるんだ」 「ふうん……“全部”かぁ。紫季くん、そういうの、他の人にも話したりするの?」  健二の声は穏やかで笑っていたけれど、その言葉に、紫季は一瞬だけ眉をひそめた。 「え? なんで?」 「いや、なんでもないよ」  健二は紫季の頭をぽんと撫でる。少しだけ、長く、ゆっくりと。

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