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第8話 混沌の境地

 「紫季くんはさ、ほんとに無防備なんだよね。何にも考えてないみたいに、ぽつんと無防備でさ。暑い日なんか、平気でタンクトップ一枚で寝転がってたりして……あれ、誘ってると思われても仕方ないよ?」  健二の声はやわらかく、笑っているようで――でもその奥には、粘りつくような熱がにじんでいた。  「こないだなんか、僕が乳首に手、当てても気づかなかったよね? ……紫季くん、ほんと無自覚なんだよ」  まるで優しく抱きしめるように見せかけて、健二の手が紫季の服をめくり上げる。薄い布地の下に隠れていた肌が露わになり、紫季は一瞬、自分の呼吸が止まった気がした。  「ね、見て。ここ。陽に当たらない部分って、ほんとに白いんだね。透き通ってるみたいに……ピンク色の乳首が、すごく、きれいに浮かんでる」  囁きながら、健二の手が肌の上を滑る。まるで宝物でも撫でるように、執拗で、ゆっくりとした動きだった。 (…怖い、怖い、怖い)  声に出せないその思いが、心の中で何度も何度も反響する。どこかで誰かに気づいて欲しいと願っているのに、身体は固まって動かない。  「ああ……そんなに震えて。怖がらないで? 僕、乱暴なことなんてしないよ。ただ……気持ちいいこと、しよう?」  健二が、紫季のズボンにそっと手をかけた――その瞬間。  ――“ピンポーン”  けたたましいインターホンの音が、リビングに響いた。  「……ちっ、誰だよ、こんな時に……無視でいい」  健二は苛立った声で言い、再び紫季へと向き直る。  ――“ピンポーン、ピンポーン!”  連打されるインターホンの音に、健二は露骨に舌打ちをしながら、玄関に向かって立ち上がった。  紫季の心臓が跳ね上がる。今しかない。この隙しかない。 (お願い……誰でもいい。助けて……!)  ガムテープで塞がれた口の奥から、喉を絞るようにして声を搾り出す。  「ん……んんーっ、う゛んっ……!!」  リビングのハイドアが視界の向こうで音を立てて開いたとき、紫季の身体がガタガタと震えた。  そして――  「紫季!!」  鋭く叫ぶ声が、紫季を包んだ。  次に目が覚めたのは、自分の部屋のベッドの上だった。 「紫季!紫季!!大丈夫か?」  そこには、酷いクマを作り、スーツを着崩して、見るからに疲れ果てている父がいた。 「あ……え……」  紫季がどもっていると、父は手をぎゅっと握り、目を潤ませた。 「ごめん……紫季。こんな…こんなことになるなんて……パパが家政夫なんて雇ったから……ほんとに……ごめんな……」  父の涙に、紫季の胸がちくりと痛む。  「……凛太朗くんがね、気づいてくれたんだよ」  涙の合間に、父がぽつりと話し出す。  「いつもなら自分の部屋で寝る準備をしている時間に、紫季の部屋の灯りが消えて、リビングの電気がついてるのがおかしいって思ったらしいんだ。だから、様子を見にうちに来てくれた。ほんとに……間に合って、よかった……」  紫季は言葉を失った。  記憶はおぼろげでも、最後に見たのは確かに――凛太朗だった。  結局、紫季は17歳になっても、事件前後の事はふんわりとしか記憶に残っていない。  ただ、家政夫が辞めたこと。 警察沙汰になり、近所が騒然としたこと。 父が大好きな商社の仕事を辞めて、自宅で仕事を始めたこと…  その事実だけが、11歳の小さな男の子の胸にグサリと突き刺さった。

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