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第9話 俺にアオハル……?

「凛太朗、まだ帰らないの?」 「えー、あともうちょっとだけ」 「……それって、うちの晩ごはんが唐揚げだって分かってて、食べて帰るつもりなんでしょ」  紫季はじとっと睨む。 「そんなこと一ミリも……いや、めちゃくちゃ考えてました。ごめんなさい。ねえ、食べて帰ってもいい?」 (やっぱり。家政婦さんの唐揚げ、やたら気に入ってるもんな……) 「はぁ……ちゃんとおばさんに連絡しておきなよ。俺、父さんに聞いてくるから」 「オッケー、紫季、ありがとー!」    あの日から、七年が過ぎようとしていた。  紫季が十一歳のときに起きた、あの夜の出来事――。  今、高校三年生になった紫季と凛太朗の関係は、当時とほとんど変わっていない。時間があればどちらかの家に行き来し、日常を一緒に過ごしている。  中学に入ったばかりの頃、凛太朗は強豪のサッカー部に入り、多忙な毎日を送っていたが、それでも週に一度は必ず紫季の顔を見に来ていた。  変わったことと言えば、ふたつ。  ひとつは、家政婦の鈴木さん。  事件のあと、父は慎重に何度も紹介所と話し合いを重ねたうえで、今の家政婦を雇った。  本来なら在宅ワークに切り替えた今、そこまで家政婦の必要性はなかったのだが、紫季と父の男ふたり暮らし。掃除や栄養面のことを考えて、日中の数時間だけ手伝ってもらうことにしたのだった。  鈴木さんは、もうすぐ定年を迎えるベテランで、仕事は手早く丁寧。紫季と顔を合わせることはほとんどないが、たまにばったり会うと「孫に会ったみたいで嬉しいわぁ」と笑う。  紫季も、まだ誰かを完全に信用できるほどではなかったが、それでも鈴木さんは悪い人ではない、と感じていた。  そしてもうひとつ――  紫季が小学六年生になってすぐ、伊達眼鏡をかけ始めたこと。  理由は、ただひとつ。目立ちたくなかったから。  あの事件のあと、「顔が良すぎるのも罪ね」なんて、大人たちは無責任に言った。  六年生ともなれば、女子たちは恋や彼氏の話題に夢中になり、紫季に向ける視線も、がらりと変わっていった。  下駄箱に手紙が入っていたり、放課後に呼び出されたり、バレンタインにはランドセルからあふれるほどのチョコを詰め込まれたり――。 (顔だけで近づいてくるやつなんて、ろくでもない。大人だって、大人のくせに、勝手なことばっかり言って……)  人との関わりが、怖かった。  これ以上、誰かの“好意”に巻き込まれるのが嫌だった。  紫季は、お父さんに伊達眼鏡がほしいと頼んだ。  理由を尋ねられたとき、紫季はうまく言葉にできなかったけれど、それでも父はしばらく沈黙したあと、ため息をついて、それを許してくれた。  それ以来、紫季は外に出るとき、必ず眼鏡をかけるようになった。  凛太朗以外とは、できるだけ距離を置いて生きていくようになった。  そんな紫季を、凛太朗は呆れながらも、たぶん、心配していたのだろう。  紫季と違って、凛太朗の視力はどんどん落ちていき、今ではコンタクトが手放せない。  なのに、視力一・二をキープしながら、わざわざ伊達眼鏡をかける紫季を見て、彼は複雑な気持ちになっていたに違いない。  ――庇護欲。心配。少しの、羨望。  だからこそ、どれだけ忙しくても、週に一度は紫季の様子を見に来た。  それは、高校三年生になった今でも、変わらない。  夜ご飯ができるまでの間、いつも通り紫季の部屋でダラダラしている二人。  例の漫画を読み終えたのか、紫季は凛太朗にダル絡みされた。 「紫季ちゃんはー、いつまでそのクソダサ眼鏡をかけたままなんですかねー?」 「はぁ? いつまでもクソもない。俺は絶対に眼鏡は外さないし、一生前髪ゾンビで過ごす」  凛太朗はぶふっと吹き出した。 「前髪ゾンビって……ははっ、確かにそうだ。昔のお前は、いかにもなお坊ちゃまヘアで、くりくりの目が可愛かったのになぁ? 今じゃゾンビだもんな!」  ツボにハマったのか、ケタケタと笑いが止まらない凛太朗。  その姿に紫季は呆れ、やがて少しムッとして、拳でドンと背中を叩いた。 「いってー」 「訂正しろ。ゾンビじゃなくて無造作ヘアと言え。もしくは、ナチュラルヘア」 「言い出したの、お前だろ? ゾンビって……」  理不尽な言い分に納得いかない様子で、凛太朗が口を尖らせる。だが次の瞬間、ぽつりと、聞こえるか聞こえないかの声で呟いた。 「……もったいねーよな」 「ん? なんか言った?」 「いや。紫季がこんな屁理屈ばっかで、根性ひん曲がってるって、俺しか知らないんだなーって思って」 「はあ? お前、ケンカ売ってんのか?」 「それそれ。その顔と言葉、クラスで見せてやれば? みんな目ん玉飛び出るぜ」  そう言った凛太朗が、不意にふっと笑う。  さっきまでの明るさとは違う、どこか――憐れみすら滲む、優しすぎる微笑だった。  その視線が、静かに紫季を射抜く。 「……な、なに?」  紫季が眉をひそめ、不安そうに目をそらす。  すると、凛太朗の手がそっと伸びてきて、紫季の眼鏡を外した。  カチリと、小さく鳴るフレームの音。 「……こんな可愛い顔してんのにな」  その声は、笑っているようで、哀れんでいるようにも聞こえた。  紫季は、思わず言葉を飲み込んだ。  喉の奥がぎゅっと痛む。    そして、ぽつりと呟いた。 「……揉め事は、ごめんだ」 (この顔は、凛太朗だけが知っていればいい。  友達も、彼女も、何もいらない。  ――凛太朗がいてくれたら、それだけで、いい)

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