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第13話 恋の追撃はとめどなく

 紫季は、いつもより三十分早く目覚ましをセットしていた。 (凛太朗と向き合わなきゃいけない。それはわかってる。でも、まだ無理だ……山中さんのこともあるし、ちょっとゆっくり考えたい)  昨日の怒涛の出来事のせいで、集中して勉強もできず、心も体もくたくたに疲れ切っていた。布団に入った瞬間、意識を手放し、すぐ眠ってしまったほどだ。  凛太朗が朝迎えに来ると言っていたのを思い出し、少しでも早く家を出て、鉢合わせしないようにと準備を急ぐ。 「父さん、行ってきます」 「おおー、今日は早いな。いってらっしゃい」  リビングを出るとき、自然と深いため息が漏れた。ローファーに足を入れながら、胸の奥がまた重く沈む。 (憂鬱だ……)  昨日もらった山中さんの手紙には、まっすぐな思いが綴られていた。  “好きです。よかったら、付き合ってください”  可愛らしい動物の絵柄の便箋に、丸みを帯びた綺麗な文字。丁寧で、彼女らしい素敵な手紙だった。  けれど、それだけだった。紫季の心は、何も動かなかった。  山中さんのことは、好印象だった。女子が多く、何かと気を遣うクラスの中で、悪口にも加担せず、浮くこともなく、誰とも自然に接している。 (まともな人間関係を築ける彼女とは、正反対だな……)と、いつも思っていた。  なのに、付き合いたいという感情は、ひと欠片も湧いてこなかった。 (俺は、ゲイなのか……?)  そもそも、自分のアイデンティティもよくわからない。  人と距離を取って生きてきた代償が、今になって一気に押し寄せてきているような気がした。  ローファーを履き終えていることにも気づかないまま、しばらく玄関でぼうっと座り込む。そして、ようやく重い腰を上げ、扉に手をかけた。 「はぁ……どうやって断ろうか……」 「何を断るの?」 「ぎゃっ!!??」  玄関のドアを開けた瞬間、耳元で不意に声がして、紫季は変な声を上げて飛び跳ねた。 「おはよう、紫季!」  凛太朗が笑って立っていた。 「お前のことだから、きっと俺を避けると思って先回りして待ってた」  紫季は言葉が出ない。パクパクと口を動かすものの、驚きが勝って声にならなかった。 「ほら、行くぞ!」  凛太朗は言うなり、紫季の腕を軽く引いて歩き出す。  強引で、明るくて、絶対に逃がしてくれない。 (……なっ……なんなんだよ、こいつーっ!!) 紫季は凛太朗のことを思い返していた。  凛太朗は、いつも冷静で、どこか冷めている。  いつだってクラスの一軍グループに属しているけれど、決して騒がしくはない。みんなと笑っていても、どこかで一線を引いているような――そんな雰囲気があった。  不良とつるむこともなければ、性に奔放ということもない。中学時代にはサッカー部で全国大会に出場しているし、常識人で、もちろん勉強もできる。  ――さすが、医者の息子というべきか。  ただ見た目だけが良くてバカ騒ぎしている他の一軍男子とは違って、凛太朗には、どこか品のようなものがある。  だからか、紫季の印象では、ガツガツした女子ではなく、したたかで堅実なタイプの女子に好かれていた。  少し天然なところを除けば、文句のつけようがない、完璧なやつ。  だからこそ―― (……なんで俺なんだ?)  紫季にだけ、凛太朗は必死になる。  あの冷静な凛太朗が。  ――正直、悪い気はしなかった。 (……あいつ、ゲイなのか? もったいないな……ノンケなら選び放題なのに)  そんなことを考えながら、紫季は図書館へ向かった。理数クラスはまだホームルーム中だから、その間に逃げ込んでおこう、という魂胆だ。 (勉強はするけど、一冊くらい久しぶりに借りてみようかな)  受験勉強ばかりで、本を読む時間が減っていた。漫画は新刊が出たときしか買わないと決めていたので、以前のようにがっつり読むこともない。  久々の図書館に、紫季の表情は自然と緩んだ。  いやいや、まずは勉強、と自分に言い聞かせながら学習スペースに向かう途中――ふと、あるタイトルが目に留まる。 (……『恋愛のすすめ』……?)  無意識に手を伸ばしかけて、ハッと我に返った。  今までなら絶対に目に入らなかったような、いかにも女の子向けの恋愛指南書の背表紙。  紫季は慌てて手を引っ込めると、右手で頭をくしゃくしゃと掻いて、早足で学習スペースへ向かった。 (なにやってんだ俺……! 恋愛のハウツー本なんて……)  「今日は勉強、今日は勉強……数学をやろう。数学、数学……」  呪文のようにぶつぶつ唱えながら、空いている机を探して席に着く。  軽くため息をつきながら、ノートを開いた。 ⸻  閉館時間まで、紫季はしっかりと集中して勉強に取り組んだ。  雑念は多少あったものの、教科書を開いてしまえば、すぐに頭を切り替えられるタイプだった。  図書館の中では、高校生や大学生、さらには幼稚園児まで出入りしていたので、必ずしも静かとは言えなかったが、紫季は周囲に気を取られず数学の問題を解き続けた。  閉館のアナウンスが流れ、ようやく携帯で時刻を確認する。 (やば……思ったより遅くなった)  帰り道、小走りで家へと向かう。  昨日の残りの肉じゃががあるし、今日は父がいるからご飯の支度は大丈夫なはず。  ……そんなことを考えながら、すっかり凛太朗のことは頭から抜けていた。   「おかえり、紫季。遅かったな」  ダイニングの椅子にくつろいでいるのは、凛太朗だった。  すでに夜ご飯を食べ終わったらしく、くつろいだ様子で椅子にもたれている。  その隣では、紫季の父がビールを片手にチータラをつまんでいた。 (………)  もう、いちいち驚かない。  動揺していたら身がもたない。  とはいえ、父よ。なぜそんなに自然に馴染んでるんだ――と思いながら、テーブルに置かれた紫季用の夕食に目をやる。ラップのかかったそれは、鈴木さんの手によるものだろう。 「紫季。今日から五日間、凛太朗くんがうちで夜ご飯を食べることになったよ。お父さんが学会で県外に行かれて、お母さんはお友達と旅行だそうだ。ひとりでも大丈夫って言ってたけど、うちも二人だし、賑やかなほうがいいかと思って、お父さんが誘ったんだ。鈴木さんには、明日から一人分増やしてもらうように言っておくからね」 「そ、そうなんだ……オッケー」 (くそっ……想像の上をくる……!) 「昔はよくお泊まりしてたんだから、五日間、紫季の部屋に泊まればいいのに、って言ったんだけど――それは遠慮するって言われてしまってね」  ブフッッ  紫季は飲んでいたお茶を盛大に吹き出した。 「はああっ⁉︎」  さすがに、驚きを隠しきれない。 「ほらね、お父さん。俺はいいけど、紫季は嫌がるって言ったでしょ?」 「そんなに驚かなくてもねぇ? 昔はあのベッドに二人でぎゅうぎゅうになって寝てたのにねぇ?」 「ねぇ?」  ……なんなんだ、この急激に距離の縮まった二人は。  かつてはたまに話す程度だったのに、今やまるで親友同士のように絡んでいる。  もちろん、お酒の力もあるのだろうけど。 「それは小学生の時の話でしょ? 今みたいにデカくなった凛太朗と、あのベッドに二人とか無理無理!」 「来客用の布団あるよ?」 「いやいや、そこまでしなくていいって!」  父の無邪気な提案に、紫季はすかさず突っ込んだ。 (ていうか、徒歩二十秒の距離で、なんで泊まる話になるんだよ……)  紫季は、「冷静に冷静に……」と心の中で唱えながら、目の前のご飯をかきこんだ。

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