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第15話 寝耳に水

 凛太朗が紫季に告白してから、もうすぐ1ヶ月が経とうとしていた。  朝晩はまだ涼しいが、日中は暑さが増している。梅雨が近づいているのか、湿気があり、空気がジトっとしていて、気分も下がる。  相変わらず2人は一緒に登校し、帰りもだいたい凛太朗が待ち伏せして一緒に帰っている。  変わった事といえば、2人とも予備校に通い始めたくらい。  お互い独学でも、学校のテストは上位をキープしていたが、さすがに受験となると話は別だ。  予備校は受験に関する情報とテクニックの宝庫だ。 体験授業や、説明会にも参加し、結局は別々の塾に通う事になった。  とはいえ、同じ駅の徒歩5分の距離。学校帰りに、予備校までの時間を、近くのファストフード店で過ごすことも多くなった。 「そういえばさ、なんで紫季は英数科にしたの?」 「あれ?言ってないっけ?」 「知らないよ。俺は理数科があるとこならどこでも良かったし、紫季が灘浜受けるって聞いて、じゃあ俺もって」 「えええー?おまっ、そんな理由で灘浜受けたのか?」  紫季は初耳でビックリして、思わず大きな声をあげた。 「そうだよ。そこそこ偏差値高いし、父さんのお眼鏡にかなった学校だったから全然良かったよ。むしろ褒められた。紫季、灘浜高校にしてくれてありがと!もっと偏差値低いところだったら、多分父さん許してくれなかったかも…」 (偏差値云々の前に、ここ、私立なんですけど。医者の息子にとっては、そんなの誤差か…)  紫季は自分とは違いすぎて、呆れ返っていた。 紫季の家も別に貧乏ではない。むしろ、裕福な方だ。  今時、家政婦を雇っている家なんてほとんどない。それでも、私立を受けたいと父に言った時は、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。 「俺は英数科があるのが灘浜だけだったからだよ。 英語の授業が充実してるし、英語で数学を学べる。 これから英語は必須だし、理数のほうが就職に有利。だから、両方できるところにした。あの頃は、正直自分で言うのもなんだけど、荒れてたからな。こんなとこ早くでて、大学は遠くに行きたい。あわよくば留学して、海外で働いて、早く金を稼いで自由になりたかった。FIREして、もう誰にも縛られないって」  凛太朗は複雑な顔をしている。憐れみと尊敬の眼差しが混ざったような…そんな顔だ。 (こいつの事だから、あの事件のこと引きずってこんな卑屈になってしまったんだ…とか、自分が適当に決めた進路を、俺は真剣に考えてたんだなぁ、とか思ってんだろうな)  紫季は、ため息をついてコーラをズズズーっと飲み干した。 「俺はそんな感じだけど、凛太朗はどうなの?やっぱり医者目指してる?」    これは本当に気になっていた事だ。口には出さないが、凛太朗は父親の事を尊敬していると思う。  それに、凛太朗は白衣が絶対似合う。しかも、俺の妄想では…小児科医。  優しい笑顔で子どもと話してるのとか、見たこともないのに浮かぶ…… 「うーん。実は、医学部は目指してない……やっぱり、父さん見てると激務なのはわかるし、立派な仕事だなって思うんだけど、自分がなりたいとは思ってなくて……正直、進路はまだ決めかねてる」  意外な答えに、紫季は「そうか……」としか言えなかった。  紫季の父は、いつも忙しくしていた。世界中を飛び回り、数カ国語を操りながら働くその姿に、子供ながらに“かっこいい”と憧れていた。  寂しさを抱くこともあったが、それ以上に、楽しそうに仕事をする父の姿に影響を受けていた紫季は、自然と語学への興味を持つようになり、それを活かす仕事がしたいと考えるようになっていた。  だからこそ、あの時——。  自分のせいで、父が商社を辞めてしまったと知ったときは、酷く落ち込んだ。  父は決して責めなかったが、悔しくなかったはずがない。  それでも「父さんの優先順位は、紫季が幸せに暮らせること。仕事は、どこででも、なんでもできるから」と言い切った父を、紫季は尊敬しているし、いつか恩返しをしたいと思っている。  だからこそ——凛太朗も当然、父親を見習って、医者を目指していると信じて疑わなかった。 (まぁ……激務だし、責任もすごいだろうな)  医者の世界のことは詳しくないが、大変な職業だということくらいはわかる。 (あ〜ぁ、小児科で子供あやしながら予防接種する凛太朗……見たかったなー)  紫季はちょっぴり残念に思いながら、ストローでコーラを吸いきった。  「ただいまー」 「おかえり、紫季。ちょっといいか?」  予備校から帰った紫季を、珍しく父が呼び止めた。  この時間、いつもなら書斎か寝室にいる父の声が、リビングから聞こえたことに少し驚く。 「紫季、明日は予備校ないよな?」 「うん。ないけど、どうしたの?」 「……明日は、まっすぐ帰ってきてくれないか」  突然の“お願い”に、胸がざわつく。 「なんで?」  すぐに聞き返す紫季に、父は一拍置いてから言った。 「……まぁ、明日になればわかるよ。今日はもう遅いし、明日ゆっくり話そう」  それだけ言うと、父は背を向けて、寝室へと消えていった。 (……今、逃げたよな?)  紫季は湯船の中で考え込む。 (鈴木さんが辞めるとか?……それとも、父がまた仕事を変えるとか……いや、まさか病気とか?)  頭の中をぐるぐると、いくつもの最悪の可能性がよぎる。  受験期の息子にこんなふうに思わせるなんて……と、モヤモヤを振り払うように、水圧を強にして冷たいシャワーを頭から浴びた。  ——でも、何をどうしても、不安は消えてくれなかった。  「ただいま」  翌日。  父の言葉通り、寄り道せず帰宅した紫季。もちろん、凛太朗も一緒にいたが、さすがに今日は玄関で別れた。  ドアを開けた瞬間——そこには見知らぬ靴が並んでいた。  女性もののバレーシューズ。そして、その隣には小さな運動靴。 「……は?」  紫季は立ちすくんだ。  リビングからは、父の声がする。 「おかえり」  たった一言なのに、心臓の鼓動が異様に早くなる。  玄関の空気が、ひどく重たく感じた。

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