15 / 46
第15話 寝耳に水
凛太朗が紫季に告白してから、もうすぐ1ヶ月が経とうとしていた。
朝晩はまだ涼しいが、日中は暑さが増している。梅雨が近づいているのか、湿気があり、空気がジトっとしていて、気分も下がる。
相変わらず2人は一緒に登校し、帰りもだいたい凛太朗が待ち伏せして一緒に帰っている。
変わった事といえば、2人とも予備校に通い始めたくらい。
お互い独学でも、学校のテストは上位をキープしていたが、さすがに受験となると話は別だ。
予備校は受験に関する情報とテクニックの宝庫だ。
体験授業や、説明会にも参加し、結局は別々の塾に通う事になった。
とはいえ、同じ駅の徒歩5分の距離。学校帰りに、予備校までの時間を、近くのファストフード店で過ごすことも多くなった。
「そういえばさ、なんで紫季は英数科にしたの?」
「あれ?言ってないっけ?」
「知らないよ。俺は理数科があるとこならどこでも良かったし、紫季が灘浜受けるって聞いて、じゃあ俺もって」
「えええー?おまっ、そんな理由で灘浜受けたのか?」
紫季は初耳でビックリして、思わず大きな声をあげた。
「そうだよ。そこそこ偏差値高いし、父さんのお眼鏡にかなった学校だったから全然良かったよ。むしろ褒められた。紫季、灘浜高校にしてくれてありがと!もっと偏差値低いところだったら、多分父さん許してくれなかったかも…」
(偏差値云々の前に、ここ、私立なんですけど。医者の息子にとっては、そんなの誤差か…)
紫季は自分とは違いすぎて、呆れ返っていた。
紫季の家も別に貧乏ではない。むしろ、裕福な方だ。
今時、家政婦を雇っている家なんてほとんどない。それでも、私立を受けたいと父に言った時は、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「俺は英数科があるのが灘浜だけだったからだよ。
英語の授業が充実してるし、英語で数学を学べる。
これから英語は必須だし、理数のほうが就職に有利。だから、両方できるところにした。あの頃は、正直自分で言うのもなんだけど、荒れてたからな。こんなとこ早くでて、大学は遠くに行きたい。あわよくば留学して、海外で働いて、早く金を稼いで自由になりたかった。FIREして、もう誰にも縛られないって」
凛太朗は複雑な顔をしている。憐れみと尊敬の眼差しが混ざったような…そんな顔だ。
(こいつの事だから、あの事件のこと引きずってこんな卑屈になってしまったんだ…とか、自分が適当に決めた進路を、俺は真剣に考えてたんだなぁ、とか思ってんだろうな)
紫季は、ため息をついてコーラをズズズーっと飲み干した。
「俺はそんな感じだけど、凛太朗はどうなの?やっぱり医者目指してる?」
これは本当に気になっていた事だ。口には出さないが、凛太朗は父親の事を尊敬していると思う。
それに、凛太朗は白衣が絶対似合う。しかも、俺の妄想では…小児科医。
優しい笑顔で子どもと話してるのとか、見たこともないのに浮かぶ……
「うーん。実は、医学部は目指してない……やっぱり、父さん見てると激務なのはわかるし、立派な仕事だなって思うんだけど、自分がなりたいとは思ってなくて……正直、進路はまだ決めかねてる」
意外な答えに、紫季は「そうか……」としか言えなかった。
紫季の父は、いつも忙しくしていた。世界中を飛び回り、数カ国語を操りながら働くその姿に、子供ながらに“かっこいい”と憧れていた。
寂しさを抱くこともあったが、それ以上に、楽しそうに仕事をする父の姿に影響を受けていた紫季は、自然と語学への興味を持つようになり、それを活かす仕事がしたいと考えるようになっていた。
だからこそ、あの時——。
自分のせいで、父が商社を辞めてしまったと知ったときは、酷く落ち込んだ。
父は決して責めなかったが、悔しくなかったはずがない。
それでも「父さんの優先順位は、紫季が幸せに暮らせること。仕事は、どこででも、なんでもできるから」と言い切った父を、紫季は尊敬しているし、いつか恩返しをしたいと思っている。
だからこそ——凛太朗も当然、父親を見習って、医者を目指していると信じて疑わなかった。
(まぁ……激務だし、責任もすごいだろうな)
医者の世界のことは詳しくないが、大変な職業だということくらいはわかる。
(あ〜ぁ、小児科で子供あやしながら予防接種する凛太朗……見たかったなー)
紫季はちょっぴり残念に思いながら、ストローでコーラを吸いきった。
「ただいまー」
「おかえり、紫季。ちょっといいか?」
予備校から帰った紫季を、珍しく父が呼び止めた。
この時間、いつもなら書斎か寝室にいる父の声が、リビングから聞こえたことに少し驚く。
「紫季、明日は予備校ないよな?」
「うん。ないけど、どうしたの?」
「……明日は、まっすぐ帰ってきてくれないか」
突然の“お願い”に、胸がざわつく。
「なんで?」
すぐに聞き返す紫季に、父は一拍置いてから言った。
「……まぁ、明日になればわかるよ。今日はもう遅いし、明日ゆっくり話そう」
それだけ言うと、父は背を向けて、寝室へと消えていった。
(……今、逃げたよな?)
紫季は湯船の中で考え込む。
(鈴木さんが辞めるとか?……それとも、父がまた仕事を変えるとか……いや、まさか病気とか?)
頭の中をぐるぐると、いくつもの最悪の可能性がよぎる。
受験期の息子にこんなふうに思わせるなんて……と、モヤモヤを振り払うように、水圧を強にして冷たいシャワーを頭から浴びた。
——でも、何をどうしても、不安は消えてくれなかった。
「ただいま」
翌日。
父の言葉通り、寄り道せず帰宅した紫季。もちろん、凛太朗も一緒にいたが、さすがに今日は玄関で別れた。
ドアを開けた瞬間——そこには見知らぬ靴が並んでいた。
女性もののバレーシューズ。そして、その隣には小さな運動靴。
「……は?」
紫季は立ちすくんだ。
リビングからは、父の声がする。
「おかえり」
たった一言なのに、心臓の鼓動が異様に早くなる。
玄関の空気が、ひどく重たく感じた。
ともだちにシェアしよう!

