17 / 46

第17話 寝耳に水

 そこには、静かに涙を流す紫季がいた。 顔は腕にうずめているが、頬を伝ってポロポロと涙がこぼれていた。  その姿を見て、凛太朗はそっとベッドに腰掛けた。  部屋の中は静まり返り、聞こえるのは時計の秒針と、紫季の鼻をすする音だけ。  凛太朗は何か言おうとして紫季を見つめたが、適切な言葉が見つからず、唇を閉じた。 「……なんか、言えよ」  紫季が鼻声でつぶやいた。  すると凛太朗は無言のまま、布団に潜り込み、紫季の隣に横たわった。 「はっ、はぁ? おまえ何してんのっ……!」  そのまま、凛太朗は紫季を抱きしめた。  それは、壊れものに触れるような抱擁だった。  背中にそっと腕をまわし、もう片方の手で紫季の頭をやさしく包み込む。  まるで赤ちゃんをあやすように、優しく背中をトントンと叩いた。 「おい、赤ちゃんじゃねーんだけど……」 「赤ちゃんだろ? 布団でピーピー泣いてんだから」 「泣いてねぇし!」  そう言いながらも、紫季の瞳からは次々と涙が溢れていた。  凛太朗の胸元からは、微かに金木犀のコロンの香りがする。  高校に入ってから彼がつけるようになったその匂いは、紫季をひどく安心させた。  紫季はその匂いを逃すまいと、凛太朗の胸に顔をうずめて深く息を吸い込んだ。 「ちょ……おい、紫季?」 「いい匂い。お前んちの部屋の匂いと一緒」 「まぁ、同じシリーズだからな……」 「ふん。色気づきやがって」  そんな風に毒を吐いても、鼻先は凛太朗の胸に埋まったままだった。 「お前なぁ……まぁ、いいけど。泣き止んだのか?」 「だ、か、ら。泣いてないってば」  紫季は頑なに認めようとしない。  凛太朗は呆れたように、大きく息を吐いた。 「泣きたくなったら泣けよ。俺の前では」 「……」 「お父さんのこと、詳しくは聞かねーけど。話したくなったらいつでも話せばいいし、気まずくなったら俺んち来い。……な?」 「……ん」  紫季は、小さく頷いた。 ───  その日を境に、紫季は何度か父・茜・葵の四人で過ごすことが増えた。  近くのカフェ、ファミレス、公園。葵はまだ4歳で落ち着かず、長く話すことはできない。  会話のほとんどは、紫季の子どもの頃の話や、葵の他愛ない出来事ばかり。  父も再婚の話を切り出せずにいるようだった。  けれど、会うたびに、紫季は茜のことを少しずつ知っていった。  出版社で働いていたこと。DVで離婚したこと。今は本屋でパートをしていること……。  たしかに、話している限りでは穏やかで優しい人に見える。  ──だが、本当の姿なんて誰にもわからない。  紫季の母も、最初は優しかった。健二も、最初は頼れる大人だった。  結局、人は変わる。  優しい顔をして近づく人ほど、裏に何かを隠している。  紫季はもう、そう思うようになってしまっていた。  何かをくれる人は、必ず見返りを求めてくる。  やさしさの裏には、必ず「意図」がある。  それでも──父だけは違った。  父は紫季にとって、唯一の信じられる存在だった。  ネグレクトに苦しんだときも、健二の事件のときも、いつだって紫季の側にいてくれた。  『紫季の幸せが一番だよ』  そう言って、キャリアを手放してまで守ってくれた。  なのに── (前妻の子供なんて、絶対うざいよな……茜さん、まだ30代……父さん45で、子どももまだ産めるじゃん。  いよいよ、お役御免か。俺……)  紫季は、深く、暗い海に沈んでいくような感覚に襲われた。  考えれば考えるほど、心が凍りついていく。  もう、自分には居場所なんてないんじゃないか──。  (……もう、何も考えたくない……)  紫季は、無理やり思考を打ち消すように、ひたすら勉強に没頭した。

ともだちにシェアしよう!